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皆神山

1,163 バイト追加, 2024年6月14日 (金)
王仁三郎との関わり
* 皆神神社境内の説明書によると(写真参照)、皆神山のかつての呼び名は「群神山」あるいは「[[水上山]]」で、慶長年間(1596~1615年)から「皆神山」と呼ばれるようになった。
== 王仁三郎関係 皆神神社 ==奈良時代の養老2年(718年)に出速雄命(いずはやおのみこと)を祭る出速雄神社が創建された。中世に熊野権現を勧請。そのため「熊野出速雄神社」とも呼ばれる。ただし境内で一番大きい社殿は摂社の「侍従神社」(皆神山の修験道を完成させた侍従天狗坊を祭る)で、向かってその右側奥に「熊野出速雄神社」が、さらにその右側奥に大本が献納した「富士浅間神社」がある。 * [http://www.minakami-jinja.jp/about.html 由緒] - 皆神神社公式サイト* [http://www.minakami-jinja.jp/facilities.html 境内図] - 皆神神社公式サイト* <wp>出早雄命</wp> == 王仁三郎との関わり ==
* 皆神山は世界の山脈十字形をなせる地であり、世界の中心地点である。<ref>{{kgm|381|信濃国皆神山}}:「信濃の国松代町の郊外にある皆神山は尊い神山であつて、地質学上世界の山脈十字形をなせる地であり、世界の中心地点である」</ref>
* 王仁三郎が明治31年の[[高熊山修行]]の際、一番最初に連れて行かれたのが[[富士山]](天教山)と皆神山(地教山)であった。<ref>{{kgm|381|信濃国皆神山}}:「私は明治三十一年高熊山にて修行中、神懸りになつて、一番につれて来られたのが天教山の富士山と、この皆神山とである」、{{kgm|337|模型を歩む}}</ref>
* 王仁三郎は昭和4年(1929年)6月3日、皆神山に登山して王仁三郎は明治31年(1898年)清水の[[長沢雄楯]]のもとを訪ねた帰りに汽車の中で[[大石凝真素美]]と出会った。大石凝に言われて二人で皆神山に行った(そのとき行ったのか、日をあらためて行ったのかは不明)。<ref name="kake0632" />* 王仁三郎は昭和4年(1929年)6月3日<ref>大本年表</ref>、皆神山に登山して[[言霊]]を奏上している。<ref>{{kgm|307|言霊奏上について}}:「大正八年以来、度々言霊奏上と云ふ事を皆でやつたことがあるが、あれは練習であつて、此度皆神山で奏上したのが、真の生言霊の発射であつた」</ref>
* 皆神山は[[素盞嗚尊]]が初めて素焼きを作られた場所であり、これが陶器の作り始まりである。<ref>{{kgm|328|二代祖神}}:「歌は「出雲八重垣」に始まり、陶器は皆神山の八甕(やつがめ)に初まつたのは人皆の知つて居る通りである」、{{kgm|525|八十平甕}}:「俗にカワラケ又はオヒラと云ふ八十平甕(やそひらか)は、素盞嗚尊様が信州の皆神山の土によつて創製されたものである」</ref>
* 皆神山には[[天照大神]]の墓があるらしい。しかし具体的にどこにあるのかは不明。<ref>新月の光0632「大石凝先生との初対面」:「皆神山には天照大神の御墓もあり、戸隠山も何もあって、古事記とは違っている」</ref>
* 第二次大戦末期の大本営移転(首都移転)は、王仁三郎の[[経綸]]によるもの。<refname="kake0525">新月の光0525「御避難所」:「陛下の御避難所は信州皆神山に用意出来ている。道路も立派に出来ているのである。王仁が経綸に行った」、新月の光0632「大石凝先生との初対面」:「大石凝先生には長沢先生の家の帰り道、汽車の中で会ったので、王仁の事を話したら不思議な事だと言って一度来いと言われて、先生と信州の皆神山へ行ったのである。そうして先生は皆神山に陛下がおいでになると言われたので、王仁は神様に綾部と聞いていると言ったら、一番は皆神山だと言われた」『[[新月の光]]』0525「御避難所」:「陛下の御避難所は信州皆神山に用意出来ている。道路も立派に出来ているのである。王仁が経綸に行った。」</ref> <ref name="kake0632">『[[新月の光]]』0632「大石凝先生との初対面」:「大石凝先生には長沢先生の家の帰り道、汽車の中で会ったので、王仁の事を話したら不思議な事だと言って一度来いと言われて、先生と信州の皆神山へ行ったのである。そうして先生は皆神山に陛下がおいでになると言われたので、王仁は神様に綾部と聞いていると言ったら、一番は皆神山だと言われた。」</ref>
* 皆神山は数十万年前の噴火によって出来た噴火口の跡にある。噴火口に出来た湖水の上に浮き出ていたので「水上山」と呼ばれるようになった。<ref>{{kgm|413|噴火口と蓮華台}}:「本宮山、亀岡、皆神山は共に噴火口の跡にあるので蓮華台をなして居るのである。(略)水の上に浮き出て居つたから、水上山の名称が起つたのである。」</ref>
* 霊界物語には「皆神山」という言葉は出て来ない。
== 富士浅間神社 ==
[[成尾陽]]「暁の大地」によると、皆神神社境内にある富士浅間神社は石の宮で、神聖神社の「暁の大地」によると、皆神神社境内にある富士浅間神社は石の宮で、[[神聖神社]]の"写し"だという。このお宮は昭和48年(1973年)に大本から献納・建立され、三代教主による「大本皇大神」の真筆と、もともと皆神神社に祭られていた木花咲耶姫命の木製の神像が奉斎された<ref>ただし『大本七十年史』では昭和31年(1956年)9月に建立されと記されている。</ref> <ref name="B195402c8142" />。その2年ほど前に機関誌上で、瑞泉苑に石の宮(神聖神社)を再建すると発表されたが、それが何らかの理由で皆神山に建てられたのだという。理由は不明。。その2年ほど前に機関誌上で、穴太の[[瑞泉苑]]に石の宮([[神聖神社]])を再建すると発表されたが、それが何らかの理由で皆神山に建てられたのだという。理由は不明。<ref>『[[みろくのよ]]』令和3年(2021年)6月号、成尾陽「暁の大地 第138回」、43頁</ref>
== ギャラリー ==

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