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岡田茂吉の大本信仰歴は、大正9年(1920年)6月から昭和9年(1934年)9月までの足掛け15年間だが、入信して間もなく甥の死をきっかけに大本から離れ、大正12年の関東大震災後に大本に戻るまで約3年間のブランクがある。 | 岡田茂吉の大本信仰歴は、大正9年(1920年)6月から昭和9年(1934年)9月までの足掛け15年間だが、入信して間もなく甥の死をきっかけに大本から離れ、大正12年の関東大震災後に大本に戻るまで約3年間のブランクがある。 |
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岡田茂吉(おかだ もきち、1882~1955年)は、元・大本信者。世界救世教の教祖。
岡田茂吉の大本信仰歴は、大正9年(1920年)6月から昭和9年(1934年)9月までの足掛け15年間だが、入信して間もなく甥の死をきっかけに大本から離れ、大正12年の関東大震災後に大本に戻るまで約3年間のブランクがある。
略年表
〔この略年表は主として谷口慧・著『神様を見せてあげよう』をもとに作成した〕
- 明治15年(1882年)12月23日、東京・浅草の橋場町で生まれる。父は古道具商で、名は喜三郎。母・登里、姉・志づ、兄・武次郎。
- 明治30年(1897年)15歳の秋、尋常高等小学校を卒業して、東京美術大学(現在の東京芸術大学)予備課程に入学し、画家を目指す。しかし入学して数ヶ月後に悪性の眼病にかかり、目がかすんで物が二つに見え出したため、画家をあきらめて退学する。
- その後、肋骨炎や肺結核で二度入院。18歳の時、医師から治療の見込みなしと宣告を受ける。だが食事を菜食に切り替えたことで、症状がおさまり、成人するまでにほぼ完治した。
- 明治38年(1905年)、父・喜三郎が死去。その遺産を資本にして八重洲に小間物の小売店「光琳道」を開く。
- 明治40年(1907年)京橋に小間物の卸問屋「岡田商店」を開業。タカと結婚。
- 明治42年(1909年)、重傷の腸チフスで、再び死の宣告を受ける。しかし入院して3ヶ月ほどで完治してしまった。本人は、死の覚悟を固めて生の執着を絶ったことで生きる道が開かれた、と語っている[1]。
- 大正4年(1915年)ガラス製装飾品「旭ダイヤモンド」を発明し、世界十ヶ国で特許を取得。爆発的に売れる。
- 事業が成功し、ある程度の貯蓄ができると、かねてから念願だった新聞発行を考える。資金調達のため、金融業を始める。第一次世界大戦による大戦景気に乗って順調に収益を上げるが、戦争が終わると戦後恐慌の打撃を受ける。
- 大正8年(1919年)春、多額の負債を抱え、倒産(借金の返済はその後22年間続いた)。
- 同年6月、妻タカが女児を早産するが、間もなく死亡。一週間後にタカも死んでしまう。(それ以前にも2回妊娠しているが、1回目は夭折、2回目は死産している。結婚後なかなか妊娠しなかったため、姉の遺児を引き取り(3人?)育てていた)
- 同年12月、よし子(太田よ志)と再婚。半年後に妊娠するが、その五ヶ月後によし子は肺結核にかかってしまう。[2]
- 茂吉は奈落の底に落ち、信仰の道を模索し始めた(37歳)。それまでは徹底した無神論者で、神仏に祈る人たちをバカにしていたが、相次ぐ不幸によって一変し、救いを求めて様々な宗教の門を叩いた。
- 大正9年(1920年)新聞広告で「大本教批判」という本を知り、買って読む。その後、神田の錦輝館(きんきかん)で大本教の講演会があることを新聞で知り、聞きに行った。その講演(講師は吉原亨)を聞いて、大本教こそ自分を救ってくれると茂吉は確信した。[2]
- 同年6月に、大本に入信する。綾部へ参拝して帰ると、後妻のよし子の病が全快するという奇蹟を体験する。[2]
- 茂吉は店員たちにも綾部に修業に行かせた。甥の彦一郎(姉の遺児?まだ10代の学生)が店員と一緒に綾部に修業に行ったが、和知川で泳いでいて水死してしまう。聖地修業中での事故死に茂吉は大きな衝撃を受ける。兄・武次郎は大本に怒りをぶつけ、そんな信仰はやめてくれと言い出した。その後3年間、茂吉は大本から離れる。しかし大本神諭を研究したり、浅野和三郎らの心霊研究グループとつながりを持つなど、神霊世界への探究は続けられた。
- 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災勃発。震災後に疫痢が流行し、10月に生後1歳の男児(よし子との間に初めて生まれた子)が病死してしまう。震災によって岡田商店の経営も苦しく、茂吉は再び奈落の底に落ちた。かねて茂吉は、大本神諭の「東京はもとの薄野(すすきの)になるぞよ」という警告から「東京は火の海になる」と予見していたが、実際に関東大震災によってそれが実現したことで〈奇跡を実感し、神の実在に触れた〉[3]。茂吉はその年のうちに大本信仰に戻り、それから3年間、神霊学の研究に没頭した。(この〈回心のきっかけとなった決定的理由は、関東大震災を警告する大本の「お筆先」だった〉[3])
- 大正15年(1926年)の暮れ、初めて神の啓示を受ける。自動書記で神示が降りて、3ヶ月の間に便箋3~400枚を書いた。〈その内容は五十万年前の原始時代から七千年前にいたる日本の創世記にはじまり、未来の人類の歴史をたどるもので、さらに茂吉自身の過去、現在、未来にわたる運命を解明していた。予言は後になって満州事変や太平洋戦争、そして戦後の世界情勢のなかに事実となって現われた。(略)残念なことに、この記録は残されていない。神示の内容には皇室の運命に言及しているところもあり、万が一官憲の目に触れることがあったはとの危惧から、ひそかにブリキ缶に収めて縁の下に隠されていた。(略)茂吉も大本に所属していたため、身辺は常に監視の目が光り、しばしば出頭を命じられた。そこで、身の危険を感じた彼は、この記録をいっさい焼却してしまった。戦後になって、彼は記憶をたどり未来世界の啓示を「二十一世紀」と題する文章にまとめている。〉[4] [5]。
- 茂吉は救いの業を身に付けるため鎮魂帰神法の習得と実践に全身全霊を打ち込む。それにより病人の奇跡的な治癒が相次いだ。 →「#手かざしのルーツ」
- 〈1927年(昭和2年)、東京愛信会の明光支社・主任となる。同年三女・斎誕生。1928年(昭和3年)2月4日、事業の一切を部下に委譲し、一層、不可視力の研究に没頭する。同年4月、大本教の准宣伝使、同7月には正宣伝使、翌1929年(昭和4年)には東京本部・常任委員となる。〉[6]
- 昭和6年(1931年)6月15日、千葉県の鋸山の山頂で「夜昼転換」の啓示を受ける(霊界で夜(闇)の時代から昼(明)の時代へ転換し始めたことを知らされた)。
- 昭和9年(1934年)9月15日、茂吉は正式な届けを出して大本を離れる。
- 同年12月23日、東京・麹町の応神堂にて「大日本観音会」の仮発会式が行われる。
- 昭和10年(1935年)元日、「大日本観音会」が正式に発足。
- 昭和22年(1947年)2月11日、「日本浄化療法普及会」結成。
- 同年8月、普及会を宗教法人「日本観音教団」に改組。
- 昭和23年(1948年)11月、日本観音教団は脱税容疑で家宅捜索を受ける。
- 昭和24年(1949年)8月25日、CID(進駐軍犯罪捜査課)の家宅捜索を受ける。
- 昭和25年(1950年)2月4日(立春)、日本観音教団を発展解消し、宗教法人「世界救世教」創立。(当初は「救世」と書いて「メシヤ」と読んでいたが、昭和32年に「きゅうせい」に改称)
- 同年5月29日、脱税等の容疑で茂吉は逮捕される。6月19日に釈放。
- 昭和27年(1952年)12月24日、裁判所で茂吉は「経済関係罰則の整備に関する法律違反」と「贈賄」の罪で懲役3年執行猶予3年の判決を受ける。弁護団は控訴をすすめたが茂吉はそれを断った。だが教団以外の被告は控訴し、2年後に全員無罪の判決が下りた。これにより間接的に茂吉の無罪が証明された。
- 昭和29年(1954年)4月19日、脳溢血で倒れる。
- 同年6月15日「メシヤ降誕仮祝典」が開かれる(茂吉がメシヤとしてこの世に誕生したことを宣言)。それまで茂吉は「明主様」と呼ばれていたが、これ以降「メシヤ様」と呼ばれることになる。
- 昭和30年(1955年)2月10日、帰幽。享年72歳。
手かざしのルーツ
世界救世教で行われている浄霊(手かざし)のルーツは、大本の鎮魂帰神である。〈現在行なわれている世界救世教の浄霊法は、「大本」教の鎮魂帰神法に端を発していて、その後長い探究の道程があり、昭和九年(一九三四)五月にようやく確立をみたものである〉[7]。
王仁三郎が鎮魂帰神術を中心に据えて宣教活動を始めたのは明治31年(1898年)3月、高熊山修業の後であるが、すでにその時から、鎮魂帰神の効果の一つとして病気の治癒があった。大正12年(1923年)8月以降、王仁三郎は御手代を宣伝使に下付して、病気治しのお取次などに使われるようになった。
岡田茂吉が病気治しに取り組みだしたのは大正12年の関東大震災(9月)の後、大本に戻ってからである。茂吉自身も扇に歌を揮毫して御手代を作り信徒に与えていた。
次に引用する『神様を~』の記述を読むと、岡田茂吉の浄霊法は当初、大本の鎮魂帰神や御手代をもとにしていたが、やがて独自の浄霊法に発展して行ったようである。
茂吉が与えた御手代は扇であった。扇面の表に、
万霊を浄めて救うこの扇
万有の霊体浄むるこの扇
身も魂も清むる白きこの扇
などと書いて、主だった信徒に与え鎮魂に当たらせたのである。
茂吉が自ら御手代を揮毫して与えた最初の記録は、昭和四年(一九二九)四月三十日にみられる。(略)
そのころ、茂吉は浄霊による病治しにかかりきりで、大森の自宅を開放して何人もの病人を宿泊させて浄霊をほどこした。(略)
草創期の記録によると、昭和五年頃の浄霊は、まず天津祝詞を奏唱し、次に合掌したあと、指頭で患部を圧し、掌でさすり、最後に息を吹きかけて終わるとなっている。少し下った七年頃には、相手に手をかざしながら天数歌を三回口の中で唱えて祈ることが行なわれた。また、相手から少し離れ、空中に指頭で「この中浄まれ」と書くこともあった。合掌して祈ったあと、息を吹きかけながら、掌をかざすということも行なわれた。
茂吉は大自然の姿や、その動きに思いをこらして、天地の理法を浄霊に取り入れることにも努めた。痛いところに手を当てるのは人間のもっとも自然な反応であり、また人間がその意志をもっともよく集中できるのは手である。そして、ものを振ることによって霊的な力が発揮される理《ことわり》なども、浄霊のうちに取り入れていった。古代神道でいう「魂《たま》ふり」である。
こうして、彼はさまざまな研鑽を重ねて、神の真意を求めながら、幾多の変遷をたどっている。そして、昭和九年(一九三四)五月に、現行の浄霊法が確立された。
しかし、当時はまだ浄霊という名称は用いられていない。九年五月以前は「鎮魂」、五月以降は「施術《せじゅつ》」とよんでいた。その後、当局の干渉で治療を禁止された玉川事件をへて、昭和十二年(一九三七)十月に活動を再開したときは「治療」とよばれた。さらに戦後、昭和二十二年(一九四七)八月、宗教法人「日本観音教団」が設立されるとともに「お浄《きよ》め」とよばれるようになる。浄霊とよばれるようになるのは、さらにその数か月後のことである。
茂吉が紙片に書いた文字を介して浄霊が行なわれるようになったのは、昭和十年五月五日からである。茂吉が自ら筆をとって書いたものを「お守り」と称した。お守りには三段階あった。すなわち、立教以前からあった身を守る肌守り。それに加えて新しい肌守りが生まれ、さらに人に浄霊を取り次ぐことのできるお守りである。従来からあった肌守りは彼の揮毫した「光」という文字のもので、新しい肌守りは「光明」という文字と千手観音像のプリントを一緒に袋に納め首からかけるものだった。この肌守りは浄霊を取り次げなかったが、病人がかけているだけで病気がいやされ、時には重病人などに貸すことも許されていた。
主な参考文献
- 谷口慧(たにぐち さとし)著『神様を見せてあげよう ──世界救世教 岡田茂吉の奇跡』昭和62年(1987年)、徳間書店
外部リンク
- 略年譜(世界救世教公式サイト内)
- 岡田茂吉 - ウィキペディア