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私は、古典のなかに「歌垣の中に立たせ給う」とたくさんあることについて、どこの国学者に聞いても判らなかつたのでありますが、その時に、今日はもう故人になられましたけれども、私の二十三歳の時に、歌をはじめて教えてくれました岡田惟平翁という国学者があつたのであります。その人に、歌垣の作り方から、つぶさに、こういうぐあいにして祭り、また、こういう歴史があるものだと聞かされたのであります。|『出口王仁三郎著作集 第三巻』「{{obc|B195303c332|歌祭り}}」(初出:『明光』昭和10年12月号)}} | 私は、古典のなかに「歌垣の中に立たせ給う」とたくさんあることについて、どこの国学者に聞いても判らなかつたのでありますが、その時に、今日はもう故人になられましたけれども、私の二十三歳の時に、歌をはじめて教えてくれました岡田惟平翁という国学者があつたのであります。その人に、歌垣の作り方から、つぶさに、こういうぐあいにして祭り、また、こういう歴史があるものだと聞かされたのであります。|『出口王仁三郎著作集 第三巻』「{{obc|B195303c332|歌祭り}}」(初出:『明光』昭和10年12月号)}} | ||
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+ | 上記の略歴等は主に次の文献をもとに作成した。 | ||
+ | * 岡田完司<ref>岡田惟平の曾孫。参考サイト:[http://tanbarakuichi.sakura.ne.jp/nantan/bookreview/nbr19.html#okadak 読書案内(南丹篇)19]</ref>・著『[[国学者 岡田惟平]] ──“あるがままに生きた”伝説の歌人』(2008年) | ||
+ | * 『[[本教創世記]]』「{{obc|B195301c07|第一章}}」(『[[出口王仁三郎著作集]] 第一巻』所収) | ||
+ | * 『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1343|牧夫の生活}}」 | ||
+ | * 『[[大地の母]] 第一巻』「{{obc|B138901c08|園部殖牛社}}」 | ||
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2023年11月21日 (火) 02:49時点における版
岡田惟平(おかだ これひら、1822~1909年)は、国学者。園部の南陽寺に滞在していた時、王仁三郎に国学や和歌、歌祭りの方法などを教えた。
略歴
文政5年(1822)12月6日、摂津国川辺郡西谷村の内大原野村(現・兵庫県宝塚市大原野西谷[1])の農家に生まれる。
通称・歌之助。父は和平、母は晶(しょう)。
摂津は著名な国学者が輩出しており、農民の子であるが、惟平は働きながら勉学に励んだ。
27歳の時、丹波の園部へ行き、園部藩の儒者・坂本三七の元で漢文や儒学を学ぶ。なぜ園部まで出向いたのかは不明。
数年間勉強した後、故郷に帰る。そして農業をしながら、近くの儒者・武藤豊樹や、勤皇家の歌人・錦小路頼徳に師事して、国学や和歌の道を学ぶ。また本居学統の国学者・八木立禮について万葉歌風を究める。30代で国学、儒学、書道など究めたが、中でも和歌が最も得意であった。後進の指導にも取り組み、遠近から教えを請いに訪ね来る者が多かった。
30歳を過ぎた頃、ウノという名の女性と結婚。三男一女をもうける。長男は安政2年(1855)に早世。
万延元年(1860)38歳の時、突発性の耳の疾病にかかり、聾者となる。以後の会話は筆談となる。
翌年(1861)、父・和平が死去。
学問に身を投じる惟平家の生活は苦しく、次男の楚玉は9歳で丹波・法京村の普門寺(現・南丹市園部町法京蔵垣内)へ預ける[2]。また三男の徳栄は摂津・此花郡の黄檗宗の寺へ預ける。
文久2年(1862)「詩玉度 ことばたまど」という自筆の動詞活用表を作成。惟平が創作し、門弟に正しい「仮名づかい」と「文法」を指導するために使ったと思われる。
惟平は筆談だったが、「ありませぬ」「存じませぬ」という丁寧な言葉づかいで、仮名づかいを特にやかましく言ったという。歌人の佐佐木信綱(1872~1963年)は惟平の遺稿を見て「まれに見る仮名つかいの大家である。数多の原稿の中で一字の写し違いもみなかった」と語っている[3]。
慶応2年(1866)次男・楚玉が園部の南陽寺に転住。
明治2年(1869)妻のウノが死去(享年50歳)。
明治8年(1875)次男・楚玉が南陽寺の住職となる。
明治19年(1886)母の晶(しょう)が死去(享年84歳)。
明治21年(1888)宮内省に御歌所が設立され、惟平は寄人(よりうど。職員のこと)に推薦されたが、健康上の理由(高齢、耳疾)で辞退した。
70歳頃(明治26年頃)から南陽寺に滞在することが多くなり、寺の衆寮(僧侶が居住する建物)で地域の人15~6人に国学の指導をする。その中に上田喜三郎(後の出口王仁三郎)がいた。
上田喜三郎は明治26年(1893)7月、故郷の亀岡を離れ、園部で獣医をしている従兄(井上直吉)の元に書生として住みこんだ。そこは井上牧場という所で、南陽寺の隣にある。喜三郎は働きながら、南陽寺で惟平に師事して国学や和歌を学んだ。
また喜三郎は、住職・楚玉の長男・岡田和厚(当時10歳)と無二の親友となった。[4]
惟平が喜三郎に教えていたのはわずか1年2ヶ月ほどであったが、「あれはなかなかの傑物だ。しかし一歩誤ると堕落してしまうおそれがある」と、喜三郎に非常な期待を寄せていた。
明治27年(1894)惟平は摂津に帰る。
明治29年(1896)南陽寺が火災に遭い、惟平の作品、持ち物はこの時に焼けてしまったと思われる。
明治40年(1907)2月、86歳の惟平は、孫の文孝(楚玉の子?)が住職をしていた園部・観景寺に転居する。
明治42年(1909)9月15日、惟平は観景寺で死去。享年89歳。墓は摂津・大原野の共同墓地にある。
明治45年(1912)門弟たちによって大原野に惟平の顕彰碑が建てられる。阿弥陀寺の門前にある。
惟平の亡き後も王仁三郎はたびたび南陽寺を訪れて、師を偲んで「敬老尊師」と染筆した。この書は今も南陽寺に残されている。
歌碑
昭和8年(1934)12月3日、王仁三郎は南陽寺に惟平を顕彰する歌碑を建立。「二夜ともなき望月の影きよみ もりてふかさん軒のさむしろ」という惟平の和歌が刻まれた。しかしこの歌碑は2年後に起きた第二次大本事件で当局によって破壊されてしまい、そのあおりで惟平の遺品まで焼却されてしまった。
昭和40年(1965)12月3日、有志によってほぼ同じ歌碑が再建された。
歌祭り
王仁三郎は昭和10年(1935年)10月31日、亀岡の明光殿にて「第一回歌祭り」を開き、廃れていた歌祭りを再興したが、そのやり方は岡田惟平に教わった。
主な参考文献
上記の略歴等は主に次の文献をもとに作成した。
- 岡田完司[5]・著『国学者 岡田惟平 ──“あるがままに生きた”伝説の歌人』(2008年)
- 『本教創世記』「第一章#」(『出口王仁三郎著作集 第一巻』所収)
- 『大本七十年史 上巻』「牧夫の生活#」
- 『大地の母 第一巻』「園部殖牛社#」
関連項目
外部リンク
- 南陽寺(公式サイト)
- 南陽寺境内の長寿椿と記念碑(歌碑等):南陽寺サイト内。歌碑について。
- 岡田惟平 - コトバンク