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辻天水

415 バイト追加, 2023年11月9日 (木) 18:12
略歴
[[ファイル:辻天水家の家紋.png|thumb|辻家の家紋。]]
〔この略歴は[[豊島泰国]]「"人類不滅"の大予言 龍宮神示と天言鏡」<ref>『[[ムー]]』平成8年(1996年)2月号掲載</ref>を主な資料として作成した〕を主な資料として作成した。それ以外の資料は脚注に記した。〕
* 明治24年(1891年)6月21日、三重県三重郡菰野村(昭和3年に菰野町となる)で、地主の家に生まれる。父・正憲(まさのり)、母・たね夫婦の長男。
* 昭和13年(1938年)辻天水と[[三雲龍三]]が元伊勢籠神社の奥宮・真名井神社に参拝した時に、三雲に「真名井竜神」が懸かることによって神示の伝達が始まった。昭和18年頃まで様々な神示が降ろされた。「たま問答」「貴の神火山」「天の巻」「美火木物語」「三界物語」「三元の理」「雑」「二名稿」の全8巻から成り、これを「[[竜宮神示]]」と総称する。<ref>中矢『大本裏神業の真相』p.201, pp.215-216, p.233</ref>
* 辻は三雲を伴い日本全国の霊山、聖地に赴き、精力的に神業を行った。<ref>中矢『大本裏神業の真相』p.201</ref>
 * 昭和17年(1942年)、辻は保釈出所した王仁三郎と亀岡で面会した。王仁三郎は「この短冊があるところが神業の中心地である」と言って御神体となる短冊を辻に授けた。それは王仁三郎が自ら認めたもので、「大国常立大神」の御神号の下に「金山彦神」「金山姫神」という御神号が書かれていた。王仁三郎はこの御神体を辻に授ける際に「近江で祀り、淡路に渡り、後は伊勢(北伊勢)に入ることになる」と告げたという。辻が近江で御神体を祀った後、再び王仁三郎に指示を仰ぎに行くと「次は淡路島で元井戸を掘るんや」と指示した。この元井戸はすでに昭和17年(1942年)、辻は保釈出所した王仁三郎と亀岡で面会した。王仁三郎は「この短冊があるところが神業の中心地である」と言って御神体となる短冊(銀紙の短冊)を辻に授けた。それは王仁三郎が自ら認めたもので、「大国常立大神」の御神号の下に「金山彦神」「金山姫神」という御神号が書かれていた。王仁三郎はこの御神体を辻に授ける際に「近江で祀り、淡路に渡り、後は伊勢(北伊勢)に入ることになる」と告げたという。辻が近江で御神体を祀った後、再び王仁三郎に指示を仰ぎに行くと「次は淡路島で元井戸を掘るんや」と指示した。この元井戸はすでに[[白山義高]]が掘り進めていたが、何も出て来なかった。王仁三郎はこの元井戸が「大国常立大神」が出現する穴だと教えた。 →「が掘り進めていたが、何も出て来なかった。王仁三郎はこの元井戸が「大国常立大神」が出現する穴だと教えた。元井戸は昭和19年10月に完成し、敷地内に小さな祠を建て、王仁三郎から下付された御神体(銀紙の短冊)を祭った<ref>[[武智時三郎]]『[[淡路の神秘]]』の、[[白山義高]]が書いた「まへがき」p.11</ref>。 →「[[淡路島神業]]」
* 昭和19年(1944年)2月、神示を降ろす霊媒(神主)だった[[三雲龍三]]が軍に召集された。三雲は翌年1月、上海で戦病死する(享年31歳)。<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.342</ref>
* 辻は「昭和20年8月15日、夫婦松のあるところに茜大神(注・大国常立大神のこと)を祀り、汝はそこに入るがよい」という神示を与えられており、それを実行するため夫婦松を探した。ついに自宅近くの三保山<ref>辻家が所有する山だった。不二「知られざる大本裏神業」p.17</ref>に樹齢200年の夫婦松を発見し、そこに茜大神を祀る小さな社を建立した。これが「[[錦之宮]]」の発祥である。
* 昭和22年(1947年)5月13日、大本信徒で八雲琴の名手である[[生源寺勇琴]](しょうげんじ ゆうきん)が[[錦之宮]]を訪れた。生源寺が八雲琴を奏しようとしたら、触れていないのに八雲琴が自然に鳴り出した。その音が鳴り止むと王仁三郎の霊姿が現れ(この時はまだ存命中)、それが消えると白く輝く文字が現れた。これが「[[天言鏡]]」と呼ぶ神示の始まりである。
* 同年に辻自身が降ろした神示は「[[神言書]]」と呼ぶ。
* 後に[[武智時三郎]](1884~1960年)と、[[岡本天明]](1897~1963年)を菰野に招き、両人とも菰野に移住した。岡本天明は錦之宮の近くに[[至恩郷]]を開いた。(武智が移住したのは昭和21年乃至23年<ref>[[岡本三典]]『[[日月神示はなぜ岡本天明に降りたか]]』p.88によると武智が菰野に移住したのは昭和21年12月8日。『88によると武智が菰野に移住したのは昭和21年12月8日。中矢『大本裏神業の真相』p.176でも同じく昭和21年12月8日。『[[言霊の道・先覚者略伝集]]』p.228によると昭和22年。不二「知られざる大本裏神業」p.31によると昭和23年。</ref>)(武智は後に至恩郷を造る荒れ地を開墾していたが、昭和29年9月、病気で倒れ、その後継者として岡本天明が選ばれた。岡本天明は武智の招きで昭和30年8月21日、菰野へ移住した<ref>岡本三典『日月神示はなぜ~』pp.88-92</ref>)
* 昭和27年(1952年)4月、[[泉田瑞顕]](1913~1990年)が辻たちと合流する。泉田は[[三保山]]の山頂に「言霊閣」<ref>名称は綾部に王仁三郎が建造した「[[言霊閣]]」(後に黄金閣に改称)を流用したと思われる。</ref>を造り、同年6月11日から11月8日まで連日、七十五声の言霊を奏上した。<ref>不二「知られざる大本裏神業」pp.32-33</ref>
* 昭和31年(1956年)6月10日、辻は王仁三郎から下付された「大国常立大神」の御神体を天明居、武智居のある土地に鎮祭する。この時、武智は聖書の「シオン」という地名を取り、この地を「シオンの郷」と命名した。これが「[[至恩郷]]」の発祥である。この祭典に[[小笠原登美子]]が参列していた。登美子は神示により登美古と名乗るようになる。<ref>中矢『大本裏神業の真相』p.210</ref>

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