差分

Jump to navigation Jump to search

辻天水

3,186 バイト追加, 2023年11月9日 (木) 18:12
略歴
== 略歴 ==
[[ファイル:辻天水家の家紋.png|thumb|辻家の家紋。]]
〔この略歴は[[豊島泰国]]「"人類不滅"の大予言 龍宮神示と天言鏡」<ref>『[[ムー]]』平成8年(1996年)2月号掲載</ref>を主な資料として作成した〕を主な資料として作成した。それ以外の資料は脚注に記した。〕
* 明治24年(1891年)6月21日、三重県三重郡菰野村(昭和3年に菰野町となる)で、地主の家に生まれる。父・正憲(まさのり)、母・たね夫婦の長男。
* 日出麿が辻の実家を訪れた時、辻家の家紋が月と日と十字を組み合わせたもので、大本の裏紋とよく似ていたため、日出麿は驚いたという。(昭和5年11月27日に日出麿が菰野を巡教したという記録が「[[大本年表]]」にある)
* その数日後<ref>中矢『大本裏神業の真相』p.199</ref>のこと。辻は和歌を詠むときの号として「天如(てんにょ)」と名乗っていたが、日出麿に「天水にしなはれ」と勧められ、天水に改めた。天=日=火とすると、天水とは火水(かみ)を意味する。
* 昭和9年(1934年)1月、娘の多鶴子(たづこ)が病死。妻のゆきは実家に帰った(昭和20年5月に逝去)。同年に日出麿が再び辻家を訪れた。昭和9年(1934年)1月、娘の多鶴子(たづこ)が病死。妻のゆきは実家に帰った(昭和20年5月に逝去)。<refname="nakaya_p199">中矢『大本裏神業の真相』p.199</ref>* 昭和10年(1935年)、辻は大本の奉仕者として、神号を認めたり、辞令を浄書する仕事に従事していた。そこへ王仁三郎が立ち寄った。辻は宣伝使を拝命したいと申し出たが、王仁三郎に「それはあかん」「ここにおれ。お前には重要な使命がある」と言われた。数日後、再び王仁三郎が辻の仕事場やって来た。辻は紙に「大本皇大神」と神号を書くところを、どうしたわけか「大」と「本」の字間を大きく離して書いてしまった。すると王仁三郎は筆をとり、「大」と「本」の間に「日」の字を書き入れ「大日本皇大神」とした。王仁三郎は辻にその書をやると言い「いずれ大事な時に使うことになる」「一厘の仕組をあんたにやってもらう」「わしが捕まったら神業の続きをする者がおらん。そやからわしの代わりに裏の神業をやってくれ」と辻に言った。同年(月日不明)日出麿が再び辻家を訪れた。<ref name="nakaya_p199" />* 昭和10年(1935年)<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.213, p.326によると昭和10年だが、中矢『大本裏神業の真相』p.199では昭和9年になっている。昭和10年2月7日は穴太で神聖神社の鎮座祭が大吹雪の中、執行されている。</ref>2月7日、[[三雲龍三]](1914~1945年)の家で辻が辻家伝来の刀を用いて<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.327では「この刀はイセ出身の辻氏が持ち寄ったものです。但し、イセの刀ならば誰の物でもよかったのです」と書かれており、辻家伝来の剣ということは軽視されている。</ref>剣の祭典が行われた。その後その刀は辻によって王仁三郎に献上される。王仁三郎は刀の辻家の家紋を見て驚き、この刀を「神聖丸」と命名し、[[昭和神聖会]]の守り刀となった。<ref name="nakaya_p199" /> <ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』pp.326-327</ref> (三雲龍三は昭和9年6月に大本入信<ref>『三雲龍三神示と神一厘の仕組』p.207によると、大本総務だった[[松並高義]](山口県出身。昭和4年入信)と三雲の姉・慰子《やすこ》が昭和9年2月に結婚(再婚)した。それにより三雲家の兄弟たちも大本に入信せざるを得なくなり、同年6月に次男・益次郎と三男・龍三が入信し、その後間もなく長男・賢一郎も入信した。</ref>。滋賀県大津市の自宅に帰ってから神がかりとなり神示が降りるようになる。三雲に降りた神示の大部分は昭和18年から19年に出されたものである<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.343, p.346</ref>)* 昭和10年のある日(年月不明)、辻は大本の奉仕者として、神号を認めたり、辞令を浄書する仕事に従事していた。そこへ王仁三郎が立ち寄った。辻は宣伝使を拝命したいと申し出たが、王仁三郎に「それはあかん」「ここにおれ。お前には重要な使命がある」と言われた。数日後、再び王仁三郎が辻の仕事場やって来た。辻は紙に「大本皇大神」と神号を書くところを、どうしたわけか「大」と「本」の字間を大きく離して書いてしまった。すると王仁三郎は筆をとり、「大」と「本」の間に「日」の字を書き入れ「大日本皇大神」とした。王仁三郎は辻にその書をやると言い「いずれ大事な時に使うことになる」「一厘の仕組をあんたにやってもらう」「わしが捕まったら神業の続きをする者がおらん。そやからわしの代わりに裏の神業をやってくれ」と辻に言った。<ref>豊国「龍宮神示と天言鏡」pp.41-42</ref>
* 第二次大本事件以降もしばらくは亀岡を離れず、学校の教員をしながら大本の動向を見守っていた。
* 辻は[[霊界物語]][[第13巻]]の信天翁(→「[[変性女子は偽者]]」)の「美濃か尾張の国の中」という箇所が、辻の実家がある伊勢のことだと気づいた<ref>王仁三郎が第13巻の信天翁を校正したのは昭和10年3月であるが、公刊されたのは戦後であるため、この時点ではまだ辻は「なぞと慢神してござる」云々と校正されたことを知らなかったと思われる。</ref>。また辻が大本に奉納した地所を王仁三郎が辻に返して「重要なお地場になる」と言っていたことや、日出麿が実家に来訪した時「大事なとこや」と感嘆していたこと、それに王仁三郎・日出麿が言っていた「カンノシ・シンノウジ(神皇子)」とは大本神諭が言う、八王をおさめる一つの王のことだと考え。また、辻が大本に奉納した地所を王仁三郎が辻に返して「重要なお地場になる」と言っていたことや、日出麿が実家に来訪した時「大事なとこや」と感嘆していたこと、それに王仁三郎・日出麿が言っていた「カンノシ・シンノウジ(神皇子)」とは大本神諭が言う、八王をおさめる一つの王のことだと考え<ref>友清歓真の著書『霊学筌蹄』の中に「此の蒼生を統べ始めて神の本道に復帰せしめむが為め、又神は渾球《こんきゅう》の表に神皇子にも次ぐべき八の王を造らる、王等おのおの其の主宰するところを色別す」とあり、これは大本神諭の「八王も王が世界にあれば、この世に口舌が絶えんから、一つの王でおさめる経綸《しぐみ》がいたしてあるぞよ」という神示に対応する。その一つの王が「カンノシ」であり「シンノウジ」であると辻は考えた。豊国「龍宮神示と天言鏡」pp.47-48</ref>、自分の使命の重大性を認識し、[[裏神業]]の道に踏み込んで行った。
* 辻は故郷の菰野に引き籠もり「[[北伊勢神業]]」に没頭した。具体的には、[[審神者]]として「[[竜宮神示]]」「[[天言鏡]]《てんげんきょう》」「[[神言書]]《しんげんしょ》」などの神示を取り次いだりする神業であった。不明な点があると大阪の刑務所に収監されている王仁三郎に面会を求め、指示を仰いだ。<ref>豊国「龍宮神示と天言鏡」p.43</ref> <ref>中矢『大本裏神業の真相』p.202</ref>
* 昭和17年(1942年)、辻は保釈出所した王仁三郎と亀岡で面会した。王仁三郎は「この短冊があるところが神業の中心地である」と言って御神体となる短冊を辻に授けた。それは王仁三郎が自ら認めたもので、「大国常立大神」の御神号の下に「金山彦神」「金山姫神」という御神号が書かれていた。王仁三郎はこの御神体を辻に授ける際に「近江で祀り、淡路に渡り、後は伊勢(北伊勢)に入ることになる」と告げたという。辻が近江で御神体を祀った後、再び王仁三郎に指示を仰ぎに行くと「次は淡路島で元井戸を掘るんや」と指示した。この元井戸はすでに昭和13年(1938年)辻天水と[[三雲龍三]]が元伊勢籠神社の奥宮・真名井神社に参拝した時に、三雲に「真名井竜神」が懸かることによって神示の伝達が始まった。昭和18年頃まで様々な神示が降ろされた。「たま問答」「貴の神火山」「天の巻」「美火木物語」「三界物語」「三元の理」「雑」「二名稿」の全8巻から成り、これを「[[竜宮神示]]」と総称する。<ref>中矢『大本裏神業の真相』p.201, pp.215-216, p.233</ref>* 辻は三雲を伴い日本全国の霊山、聖地に赴き、精力的に神業を行った。<ref>中矢『大本裏神業の真相』p.201</ref>* 昭和17年(1942年)、辻は保釈出所した王仁三郎と亀岡で面会した。王仁三郎は「この短冊があるところが神業の中心地である」と言って御神体となる短冊(銀紙の短冊)を辻に授けた。それは王仁三郎が自ら認めたもので、「大国常立大神」の御神号の下に「金山彦神」「金山姫神」という御神号が書かれていた。王仁三郎はこの御神体を辻に授ける際に「近江で祀り、淡路に渡り、後は伊勢(北伊勢)に入ることになる」と告げたという。辻が近江で御神体を祀った後、再び王仁三郎に指示を仰ぎに行くと「次は淡路島で元井戸を掘るんや」と指示した。この元井戸はすでに[[白山義高]]が掘り進めていたが、何も出て来なかった。王仁三郎はこの元井戸が「大国常立大神」が出現する穴だと教えた。元井戸は昭和19年10月に完成し、敷地内に小さな祠を建て、王仁三郎から下付された御神体(銀紙の短冊)を祭った<ref>[[武智時三郎]]『[[淡路の神秘]]』の、[[白山義高]]が掘り進めていたが、何も出て来なかった。王仁三郎はこの元井戸が「大国常立大神」が出現する穴だと教えた。 →「が書いた「まへがき」p.11</ref>。 →「[[淡路島神業]]」* 昭和19年(1944年)2月、神示を降ろす霊媒(神主)だった[[三雲龍三]](1914~1945年)が召集された。三雲は翌年1月、上海で戦病死する(享年31歳)。が軍に召集された。三雲は翌年1月、上海で戦病死する(享年31歳)。<ref>『[[三雲龍三神示と神一厘の仕組]]』p.342</ref>
* 辻は「昭和20年8月15日、夫婦松のあるところに茜大神(注・大国常立大神のこと)を祀り、汝はそこに入るがよい」という神示を与えられており、それを実行するため夫婦松を探した。ついに自宅近くの三保山<ref>辻家が所有する山だった。不二「知られざる大本裏神業」p.17</ref>に樹齢200年の夫婦松を発見し、そこに茜大神を祀る小さな社を建立した。これが「[[錦之宮]]」の発祥である。
* 昭和22年(1947年)5月13日、大本信徒で八雲琴の名手である[[生源寺勇琴]](しょうげんじ ゆうきん)が[[錦之宮]]を訪れた。生源寺が八雲琴を奏しようとしたら、触れていないのに八雲琴が自然に鳴り出した。その音が鳴り止むと王仁三郎の霊姿が現れ(この時はまだ存命中)、それが消えると白く輝く文字が現れた。これが「[[天言鏡]]」と呼ぶ神示の始まりである。
* 同年に辻自身が降ろした神示は「[[神言書]]」と呼ぶ。
* 後に[[武智時三郎]](1884~1960年)と、[[岡本天明]](1897~1963年)を菰野に招き、両人とも菰野に移住した。岡本天明は錦之宮の近くに[[至恩郷]]を開いた。(武智が移住したのは昭和21年あるいは23年を開いた。(武智が移住したのは昭和21年乃至23年<ref>[[岡本三典]]『[[日月神示はなぜ岡本天明に降りたか]]』p.88によると昭和21年12月8日。不二「知られざる大本裏神業」p88によると武智が菰野に移住したのは昭和21年12月8日。中矢『大本裏神業の真相』p.176でも同じく昭和21年12月8日。『[[言霊の道・先覚者略伝集]]』p.228によると昭和22年。不二「知られざる大本裏神業」p.31によると昭和23年。</ref>)(武智は後に至恩郷を造る荒れ地を開墾していたが、昭和29年9月、病気で倒れ、その後継者として岡本天明が選ばれた。岡本天明は武智の招きで昭和30年8月21日、菰野へ移住した<ref>岡本三典『日月神示はなぜ~』pp.88-92</ref>)
* 昭和27年(1952年)4月、[[泉田瑞顕]](1913~1990年)が辻たちと合流する。泉田は[[三保山]]の山頂に「言霊閣」<ref>名称は綾部に王仁三郎が建造した「[[言霊閣]]」(後に黄金閣に改称)を流用したと思われる。</ref>を造り、同年6月11日から11月8日まで連日、七十五声の言霊を奏上した。<ref>不二「知られざる大本裏神業」pp.32-33</ref>
* 昭和31年(1956年)6月10日、辻は王仁三郎から下付された「大国常立大神」の御神体を天明居、武智居のある土地に鎮祭する。この時、武智は聖書の「シオン」という地名を取り、この地を「シオンの郷」と命名した。これが「[[至恩郷]]」の発祥である。この祭典に[[小笠原登美子]]が参列していた。登美子は神示により登美古と名乗るようになる。<ref>中矢『大本裏神業の真相』p.210</ref>
== 関連用語 ==
* [[大本裏神業]]:
* [[竜宮神示]]:
* [[辻恵子]]:旧姓・井出。辻正道の帰幽後、90年代末に辻家の養女となる。林宏明と結婚。<ref>秋山真人「天言鏡に予言された錦之宮の復活」p.72、『ムー』平成12年(2000年)1月号</ref>
* [[錦の宮]]:霊界物語で、自転倒島における三五教の経綸の中心地。

案内メニュー