「出口直」の版間の差分
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2023年7月30日 (日) 02:16時点における版
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出口直(でぐちなお)(1837 - 1918年)は、大本開祖。(本項では「直」では読みにくい場合があるため「ナオ」と表記する)
天保7年12月16日(新1837年1月22日)生誕。[1]
大正7年(1918年)11月6日(旧10月3日)昇天。(満81歳、数え83歳[2])
概要
略年表
(年齢は原則として満年齢)(明治5年12月2日までは旧暦。翌日改暦され新暦6年1月1日となる)
天保7年12月16日(1837年1月22日) | 桐村ナオ生誕。 |
嘉永6年(1853年)(16歳) | 綾部に移住し、叔母・出口ユリの養女となる。(時期は諸説あり→「#最初の綾部移住の時期」) |
安政2年2月3日(1855年3月20日)(18歳) | 豊助(とよすけ)と結婚[3]。豊助は「政五郎」を襲名する。 |
明治16年(1883年)2月3日(旧12月26日)(46歳) | 五女・出口澄子が生まれる。 |
明治20年(1887年)3月1日(旧2月7日)(50歳) | 夫・政五郎が帰幽(60歳)。 |
明治25年(1892年)1月30日(旧1月1日)(55歳) | 霊夢を見る。 |
同年2月3日(旧1月5日) | 帰神状態となる。 |
明治26年(1893年)4月~5月 | 4月21日、放火の嫌疑で警察署に留置される。翌日に嫌疑は晴れるが、発狂者として座敷牢に入れられる。その間、釘で柱に文字を書く(筆先の初まり)。5月30日、座敷牢から出される。 |
明治27年(1894年)11月12日(旧10月15日) | 大本の広前を初めて開く。大島景僕の離れ座敷(通称「別荘」)に艮の金神と金光大神を併祀。 |
明治30年(1897年)4月4日(旧3月3日)(60歳) | 綾部・裏町の梅原伊助の倉に広前を遷し、艮の金神を単独で奉斎する。 |
明治31年(1898年)10月8日(旧8月23日) | 上田喜三郎と初めて面会。 |
明治32年(1899年)7月3日(旧5月26日) | 上田喜三郎が綾部に移住し大本入りする。 |
明治33年(1900年)1月31日(旧1月1日)(63歳) | 上田喜三郎と出口澄子が結婚する。 |
同年7月4日(旧6月8日) | 冠島開き。 |
同年8月2日(旧7月8日) | 沓島開き。 |
同年10月1日(旧閏8月8日) | 鞍馬山出修。その後、ナオは別荘(大島景僕の離れ座敷)に100日間籠もる。 |
同年11月1日(旧9月10日) | 広前を竜門館(大島景僕宅)に遷す。 |
明治34年(1901年)4月26日(旧3月8日) | 元伊勢水の御用。 |
同年7月1日(旧5月16日) | 出雲火の御用。 |
同年10月19日(旧9月8日)~25日 | 弥仙山岩戸籠もり。 |
同年10月28日(旧9月17日) | 別荘に100日間籠もる。 |
明治36年(1903年)5月24日(旧4月28日) | 弥仙山岩戸開き。 |
明治38年(1905年)5月14日(旧4月10日)~25日 | 沓島籠もり。 |
明治45年(1912年)4月24日(旧3月8日) | 伊勢内宮・外宮・香良洲神社参拝。 |
大正5年(1916年)10月4日(旧9月8日) | 神島へ。翌5日(旧9月9日)王仁三郎がみろく様の霊であるという筆先が出る(見真実)。 |
大正7年(1918年)11月6日(旧10月3日)(81歳) | 昇天。 |
家族
出口直の子供(三男五女)
- 長女/米(よね)/安政3年(1856年)7月20日(新8月20日)誕生[4]/大正4年(1915年)5月7日(旧3月24日)帰幽[5](満58歳、数え60歳)
- 二女/琴(こと)/文久2年(1862年)6月8日(新7月4日)誕生[6] [7]/昭和6年(1931年)2月3日(旧12月16日)帰幽[8](満68歳、数え70歳)
- 長男/竹蔵(たけぞう)/元治元年(1864年)12月2日(新12月30日)誕生[9]/昭和7年(1932年)9月2日(旧8月2日)帰幽[10](満67歳、数え69歳)
- 三女/久(ひさ)/慶応4年(1868年)6月4日(新7月23日)誕生[11] [12]
- 二男/清吉(せいきち)/明治5年(1872年)6月6日(新7月11日)誕生[13] [14]/明治28年(1895年)7月7日(旧閏5月15日)台湾で戦死(戸籍上の死亡日は8月18日)[15](満22歳、数え24歳)
- 三男/伝吉(でんきち)/明治10年(1877年)3月11日(旧1月27日)誕生[16]/昭和14年(1939年)3月7日(旧正月17日)帰幽[17](満61歳、数え63歳)
- 四女/龍(りょう)/明治13年(1880年)4月12日(旧3月3日)誕生[18]/大正11年(1922年)1月4日(旧12月7日)帰幽[19](満41歳、数え43歳)
- 五女/澄(すみ)/明治16年(1883年)2月3日(旧12月26日)誕生[20] [21]/昭和27年(1952年)3月31日(旧3月6日)帰幽(満69歳、数え70歳)
(『大本年表』以外で確認した文献を脚注に記した)
米と琴の間に夭折した子供が3人いる。[22]
- 「やす」/生後200日で帰幽
- 「甚吉」/生後100日で帰幽
- 性別氏名不詳/生後2日で帰幽
開教前
最初の綾部移住の時期
桐村ナオは叔母・出口ユリに強く頼まれて養女になり綾部に移住したが、強欲で薄情な親戚が嫌になり[23]、数ヶ月して福知山に帰ってしまった。その後出口ユリの霊が現れて責められたため再度綾部に行き結婚する。この最初の綾部移住の時期について諸説がある。
『大本年表』や『大本七十年史』は、最初に綾部に移住したのは嘉永6年(1853年)とし、ユリが自殺した安政元年(1854年)より前だとしている。[24] [25]
それに対して出口和明『大地の母』では、ユリが自殺した後だとしている。[26]
これについて出口和明は『いり豆の花』の中で、出口澄子の著述の中で、最初の移住はナオが18歳の時だとする記述と、16歳の時だとする記述があるが[27]、いずれにせよユリの死後のこととして記されていると指摘している。ユリの自殺は安政元年(1854年)8月29日[28]なので、移住はユリが死んだ日「以後間もなくから何ヶ月かの間」であり「直十九歳の年」[27]だと推測している。[29]
『大本年表』や『大本七十年史』が、ナオの移住はユリの自殺前だと解釈しているのは、澄子の記憶の中で、ユリの自殺後という記憶よりも、ナオが18歳または16歳の時だという年齢の記憶の方が信用できると考えたためではないか? 数えで18歳なら嘉永6年(1853年)、16歳なら嘉永4年(1851年)であり、ユリの自殺(1854年)より前になる。[30]
開教後
著書
伝記・研究書
→詳細は伝記歴史書
脚注
- ↑ 天保7年はグレゴリオ暦だと1836年2月17日から1837年2月4日までである。大半が1836年であるため、一部の資料には出口ナオの誕生年を1836年としているものもある。【例】伊藤栄蔵『大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯』p20:「まず福知山から語らねばならないだろう。幕末の天保七年(一八三六)になおがその地で生誕したからである」。村上重良『出口王仁三郎』p63:「一八三六年(天保七)旧十二月十六日(略)桐村家に生まれたナオは」。
- ↑ 数え年だと天保7年=1836年として数えるため83歳になる。
- ↑ 四方豊助はナオより先に出口ユリの養子になっていた。
- ↑ 『いり豆の花』p164
- ↑ 『いり豆の花』p682
- ↑ 『いり豆の花』p170
- ↑ 琴の出生名は「おみと」。6歳の時に改名した。同p170
- ↑ 『大本年表』
- ↑ 『いり豆の花』p170
- ↑ 『大本年表』
- ↑ 『いり豆の花』p173
- ↑ 1868年の9月8日に「明治」に改元された。
- ↑ 『いり豆の花』p180
- ↑ 明治5年(1872年)旧12月3日が明治6年(1873年)新1月1日に改暦。
- ↑ 出口和明『入蒙秘話』p46-48
- ↑ 『いり豆の花』p198
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「4 沓島ごもり#」p257
- ↑ 『いり豆の花』p202
- ↑ 『大本年表』
- ↑ 『いり豆の花』p208
- ↑ 戸籍上は2月8日出生になっている。同p208
- ↑ 出口和明『入蒙秘話』p37
- ↑ 『幼ながたり』2 母の生いたち#:「綾部に来てみれば、親類はあっても、薄情な者ばかりで(略)六カ月ほどは一人で留守をされていましたが、清れんなお気持ちの教祖さまにとって、あまり気持ちの淋しくなる事ばかりが続いて、こらえきれぬので福知山に帰ってしまわれました」
- ↑ 『大本年表』嘉永6年(1853年)の項(月日は記載無し):「なおは綾部町の出口ゆり(なおの叔母)の養女となる。半年で実家に帰る」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「出口家入り#」p42:「一八五三(嘉永六)年、なおは一七才で綾部の叔母出口ゆりの養女となった」「一七才のなおは、こういう状態の出口家に養女として入ったが、もともと気のすすまなかったなおは、ゆりをきらい、半年ばかりで福知山に帰ってしまった」
- ↑ 『大地の母 第三巻』「ゆりの怨霊」
- ↑ 27.0 27.1 18歳、16歳、19歳いずれも数え年であろう。
- ↑ 『いり豆の花』p126「(略)非業の最後を遂げた。『教祖伝』はこの日を安政元年八月十九日のこととしているが、出口家の菩提寺である西福院(綾部市東新宮寺町)にある過去帳によると、八月二十九日となっている。」
- ↑ 『いり豆の花』p128
- ↑ 現代的な感覚だと、死んだ後で養女になって移住したと考えるよりも、生きている時に養女になって移住したと考えた方が理解しやすいが、江戸時代なので現代とは習慣・風俗が異なる。