「神明社」の版間の差分
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− | '''神明社''' | + | '''神明社'''(しんめいしゃ)は、[[穴太]]にある神社。「'''郷神社'''(ごうじんじゃ)」とも呼ばれる。 |
− | [[小幡神社]] | + | * 鎮座地:亀岡市曽我部町穴太宮垣内8 |
+ | * 主祭神:天照皇大神、豊受姫命 | ||
+ | * 「[[故郷乃二十八年]]」によると、古代、[[比沼真奈井]]から豊受姫大神が伊勢に遷座する途中、穴太の上田家が御旅所となった。その時、神霊に供えていた荒稲の種子が樹の穴に落ち、そこから苗が発生し、ついに瑞穂が実った。その稲に「千本」という名を付けて四方に広めた。ここから「穴穂」(穴太)の名が起こった。祖先はそれを家門の光栄とし、その瑞祥を後世に伝えるため社殿を造営し天照大御神・豊受姫大神を祀った。これが神明社の起源である。もともとは上田家の屋敷内である[[宮垣内]](宮垣内の名称もこの時できた)にあったが、文禄年間(1593~1596年)に[[川原条]]に遷された。遷座されてから「後神明社(こうしんめいしゃ)」と改称されたが、いつの間にか「後神社(ごうじんじゃ)」と呼ばれるようになり、今では「郷神社」と呼ばれるようになった。<ref>『[[出口王仁三郎著作集]] 第五巻』「{{obc|B195305c103|生いたちの記}}」</ref> | ||
+ | * 神明社の社前の広場に、喜三郎の居宅である「[[喜楽亭]]」があった。<ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1412|入山の動機}}」</ref> | ||
+ | ** 郷神社の裏の竹藪のあたりに[[穴太精乳館]]が、道(府道407号)を隔てたところ([[小幡神社]]の北側)に[[喜楽亭]]があった。<ref>『[[神の国 (1990)|神の国]]』平成4年(1992年)1月号p30の2段目:「郷神社裏の竹薮あたりが精乳館跡、道を隔てて右斜めが上田家の本屋敷を購入した○○宅、左斜めが喜楽亭跡(現○○宅)という事」(個人名は伏せた)</ref> <ref>[[十和田龍]]『[[出口王仁三郎 (十和田龍の著書)|出口王仁三郎]] 1』p271</ref> | ||
+ | == 脚注 == | ||
<references/> | <references/> | ||
− | [[Category:神社| | + | [[Category:神社|しんめいしや]] |
2022年9月22日 (木) 18:58時点における最新版
神明社(しんめいしゃ)は、穴太にある神社。「郷神社(ごうじんじゃ)」とも呼ばれる。
- 鎮座地:亀岡市曽我部町穴太宮垣内8
- 主祭神:天照皇大神、豊受姫命
- 「故郷乃二十八年」によると、古代、比沼真奈井から豊受姫大神が伊勢に遷座する途中、穴太の上田家が御旅所となった。その時、神霊に供えていた荒稲の種子が樹の穴に落ち、そこから苗が発生し、ついに瑞穂が実った。その稲に「千本」という名を付けて四方に広めた。ここから「穴穂」(穴太)の名が起こった。祖先はそれを家門の光栄とし、その瑞祥を後世に伝えるため社殿を造営し天照大御神・豊受姫大神を祀った。これが神明社の起源である。もともとは上田家の屋敷内である宮垣内(宮垣内の名称もこの時できた)にあったが、文禄年間(1593~1596年)に川原条に遷された。遷座されてから「後神明社(こうしんめいしゃ)」と改称されたが、いつの間にか「後神社(ごうじんじゃ)」と呼ばれるようになり、今では「郷神社」と呼ばれるようになった。[1]
- 神明社の社前の広場に、喜三郎の居宅である「喜楽亭」があった。[2]