「みろく大祭」の版間の差分
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みろく大祭(みろくたいさい)とは、昭和3年(1928年)3月3日(旧2月12日)に執行された出口王仁三郎の満56歳7ヶ月を祝う祭典、及びそれを記念して毎年その時期に執行される祭典のこと。
祭典名は当初から漢字(五六七)ではなく平仮名(みろく)である。
昭和3年
王仁三郎は昭和3年は天地剖判から56億7千万年目に当たるとして、元日に次の歌を詠んだ。[1]
{inyou| すみ渡る五十六億七千万年(いそむをななちよろづとし)明けし昭和の初日の出かな
春立てば五十六年七ケ月 神の仕組も辰の豊年(とよとし)
大神の仕組の綱にあやつられ みろくの年を迎へけるかな | }}
みろく大祭を開くことがいつ決まったのかは不明だが、『真如の光』昭和3年(1928年)2月15日号(節分大祭号)p49に「みろく祭挙行」の広告が掲載されている。それ以前には掲載されていない。
昭和3年3月3日に執行されたみろく大祭には次の三つの特筆すべき事柄がある。
- 王仁三郎がみろく菩薩として下生した。
- 王仁三郎が神饌物の芋や大根を幹部に与えた。これが後に第二次大本事件で治安維持法違反の証拠とされる。
- 王仁三郎を始め幹部全員が一旦無役となり、翌日王仁三郎以下、全員が一段下の職階に就く新体制が発足した。
3月1日夜、天恩郷神集殿において王仁三郎は眠ることが出来ず、2日午前3時33分に神命が下り、王仁三郎はみろく菩薩として出現し、みろく神業の現界的活動を行うこととなった。[2]
王仁三郎が3月3日に詠んだ歌日記の中に、次の歌がある[3]。これは自分がみろく菩薩=五六七神だということを宣言している歌である。
今日こそは五十六年七ケ月 五六七の神代(みよ)の始めなりけり
諸方面諸菩薩率ゐみろく菩薩 高天原に今日下生せり
大本の教祖(みおや)の神の奥津城に 五六七出現報告祭なす
当日の祭典はまず綾部で、天王平の開祖の奥津城に参拝した。その後、五六七殿に参集し、王仁三郎は澄子・直日・日出麿を始め出口家(寿賀麿・梅野夫妻、宇知麿・八重野夫妻、尚江、住ノ江)、総務14人(井上留五郎・高木鉄男・岩田久太郎・御田村竜吉・東尾吉雄・湯川貫一・四方平蔵・梅田信之・中野武英・湯浅仁斎・出口慶太郎・桜井同仁・西村光月・栗原白嶺)を率いて至聖殿に昇殿した。通常の祭典は行わず、王仁三郎の先達のもと一同神言を奏上。終わって王仁三郎は次の神歌を朗吟した。
万代の常夜の暗もあけはなれ みろく三会の暁きよし
次に王仁三郎は神饌物から、日地月の三輪になぞらえて林檎3つを取った。澄子には大大根(おおだいこん)と頭薯(かしらいも[4])を与え、日出麿・寿賀麿・宇知麿の3人には大根と頭薯を、総務14人には頭薯を一つずつ与えた。王仁三郎がなぜそのようなことを行ったのかは分からない。しかしこのことが後に第二次大本事件の裁判で、当局が治安維持法違反の証拠として取り上げた。
午後は亀岡に移動して小幡神社に参拝。明光社で冠句の開巻。この日、大祥殿に供えられた玉串料はちょうど567円であった。翌3月4日は高熊山参拝。登山参拝者は計567人であった。[5]
3月3日は大本教主(澄子)以外は、王仁三郎を始め幹部役職員は全員無役となった。具体的には大本総裁・総務部主事・内事部主事・総務・天恩郷主事・同主事補・大本瑞祥会会長・同会長補・天声社社長・同社長補の職務、及び大宣伝使全員、以上の役職者の宣伝使が返上された。
翌3月4日、神命により王仁三郎は大本総裁・天恩郷主事・大本瑞祥会会長・天声社社長の役に就いた。従来その役に就いていた者を一段階低い役職に任命し、役職者の宣伝使・大宣伝使・総務の役もあらためて任命した。人類愛善会会長(出口宇知丸)のみは既に王仁三郎が総裁であったため今まで通りであった。
王仁三郎が現界的に一段神格を下げて役職に就き、その他の幹部はそれぞれ一段ずつ職務が下がった形になる。[6]
【参考文献】
芋大根事件
第二次大本事件は不敬罪と治安維持法違反の容疑で検挙されたが、当局はその根拠として、昭和3年3月3日のみろく大祭をもって国体変革を目的とする秘密結社を組織したと断定した。
一審では──自分が林檎を3つ取ったのは、日地月の三輪で宇宙を統一するのだから、地上の王(天皇)をなくして世界の独裁君主となる意図を暗示したのである。澄子に大きな大根を与えたのは世界の大根(おおね)つまり世界の皇后になることを示唆したものである。幹部に頭薯を一つずつ与えたのは、陰謀の旗頭になってもらいたいという意味が含まれている──と断じ、王仁三郎は治安維持法違反で無期懲役となった。
しかし二審では治安維持法違反は無罪となった。
王仁三郎は保釈出所した後「今度の事件は芋大根事件で、大根と芋にこじつけないと治安維持法違反にならないのでそうやったのだ」と言ってよく笑わした。
【参考文献】
昭和4年以降
昭和4年から10年までは、旧3月3日にみろく大祭が執行された。新暦3月3日ではなく旧暦3月3日である理由は不明[7]。
数日に亘って開催される場合は、祭典自体は旧3月3日に執行され、他の日には講演や昭和青年会・坤生会等の総会や訓練が行われている。[8]
- 昭和4年(1929年)4月12日(旧3月3日、金曜日)
- 昭和5年(1930年)4月1日(旧3月3日、火曜日)
- 昭和6年(1931年)4月20日(旧3月3日、月曜日)
- 昭和7年(1932年)4月8日(旧3月3日、金曜日)綾部・亀岡両聖地にて五日間開催
- 昭和8年(1933年)3月26日(旧3月1日、日曜日)亀岡、綾部、竹田愛善郷の順に五日間に亘り開催
- 昭和9年(1934年)4月16日(旧3月3日、月曜日)綾部・亀岡両聖地にて22日まで七日間開催
- 昭和10年(1935年)4月4日(旧3月2日、木曜日)綾部・亀岡両聖地にて7日まで四日間開催
第二次大戦後は、昭和25年(1950年)4月19日(旧3月3日)にみろく大祭が15年ぶりに復活した。それ以降も旧3月3日に執行されるようになったが、日は時代により変更がある。昭和54年(1979年)からは新5月5日に執行されている。
令和4年(2022年)現在は新5月5日に梅松苑で執行されている。また、大本信徒連合会と愛善苑では新4月の第一日曜日(4月1日の場合は第二日曜日)に執行しているようである。
関連項目
脚注
- ↑ 『真如の光』昭和3年(1928年)2月15日号(節分大祭号)「宇知麿様のお話」p87-88
- ↑ 『真如の光』昭和3年(1928年)3月5日号「御報告」p8
- ↑ 『真如の光』昭和3年(1928年)3月15日号p4
- ↑ 里芋の親芋で、縁起物。
- ↑ 『真如の光』昭和3年(1928年)3月15日号「みろく大祭概況」p8-15
- ↑ 『真如の光』昭和3年(1928年)3月5日号「御報告」p8-10
- ↑ 現界的な理由としては、新3月3日だと2月3日の節分大祭のすぐ翌月なので信者が集まりにくいということが考えられる。旧3月3日ならたいてい新4月なので節分大祭から二ヶ月が空く。
- ↑ 「大本年表」及び当時の機関誌による。