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『大本年表』や『大本七十年史』が、ナオの移住はユリの自殺前だと解釈しているのは、澄子の記憶の中で、ユリの自殺後という記憶よりも、ナオが18歳または16歳の時だという年齢の記憶の方が信用できると考えたためではないか? 数えで18歳なら嘉永6年(1853年)、16歳なら嘉永4年(1851年)であり、ユリの自殺(1854年)より前になる。 | 『大本年表』や『大本七十年史』が、ナオの移住はユリの自殺前だと解釈しているのは、澄子の記憶の中で、ユリの自殺後という記憶よりも、ナオが18歳または16歳の時だという年齢の記憶の方が信用できると考えたためではないか? 数えで18歳なら嘉永6年(1853年)、16歳なら嘉永4年(1851年)であり、ユリの自殺(1854年)より前になる。 |
2021年10月8日 (金) 19:25時点における版
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出口直(でぐちなお)(1837 - 1918年)は、大本開祖。(本項では「直」では読みにくい場合があるため「ナオ」と表記する)
天保7年12月16日(新1837年1月22日)生誕。[1]
大正7年(1918年)11月6日(旧10月3日)昇天。(満81歳、数え83歳[2])
概要
家族
開教前
最初の綾部移住の時期
桐村ナオは叔母・出口ユリに強く頼まれて養女になり綾部に移住したが、強欲で薄情な親戚が嫌になり[3]、数ヶ月して福知山に帰ってしまった。その後出口ユリの霊が現れて責められたため再度綾部に行き結婚する。この最初の綾部移住の時期について諸説がある。
『大本年表』や『大本七十年史』は、最初に綾部に移住したのは嘉永6年(1853年)とし、ユリが自殺した安政元年(1854年)より前だとしている。[4] [5]
それに対して出口和明『大地の母』では、ユリが自殺した後だとしている。[6]
これについて出口和明は『いり豆の花』の中で、出口澄子の著述の中で、最初の移住はナオが18歳の時だとする記述と、16歳の時だとする記述があるが[7]、いずれにせよユリの死後のこととして記されていると指摘している。ユリの自殺は安政元年(1854年)8月29日[8]なので、移住はユリが死んだ日「以後間もなくから何ヶ月かの間」であり「直十九歳の年」[7]だと推測している。[9]
『大本年表』や『大本七十年史』が、ナオの移住はユリの自殺前だと解釈しているのは、澄子の記憶の中で、ユリの自殺後という記憶よりも、ナオが18歳または16歳の時だという年齢の記憶の方が信用できると考えたためではないか? 数えで18歳なら嘉永6年(1853年)、16歳なら嘉永4年(1851年)であり、ユリの自殺(1854年)より前になる。
開教後
著書
伝記・研究書
脚注
- ↑ 天保7年はグレゴリオ暦だと1836年2月17日から1837年2月4日までである。大半が1836年であるため、一部の資料には出口ナオの誕生年を1836年としているものもある。【例】伊藤栄蔵『大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯』p20:「まず福知山から語らねばならないだろう。幕末の天保七年(一八三六)になおがその地で生誕したからである」。村上重良『出口王仁三郎』p63:「一八三六年(天保七)旧十二月十六日(略)桐村家に生まれたナオは」。
- ↑ 数え年だと天保7年=1836年として数えるため83歳になる。
- ↑ 『幼ながたり』2 母の生いたち#:「綾部に来てみれば、親類はあっても、薄情な者ばかりで(略)六カ月ほどは一人で留守をされていましたが、清れんなお気持ちの教祖さまにとって、あまり気持ちの淋しくなる事ばかりが続いて、こらえきれぬので福知山に帰ってしまわれました」
- ↑ 『大本年表』嘉永6年(1853年)の項(月日は記載無し):「なおは綾部町の出口ゆり(なおの叔母)の養女となる。半年で実家に帰る」
- ↑ 『大本七十年史 上巻』「出口家入り#」p42:「一八五三(嘉永六)年、なおは一七才で綾部の叔母出口ゆりの養女となった」「一七才のなおは、こういう状態の出口家に養女として入ったが、もともと気のすすまなかったなおは、ゆりをきらい、半年ばかりで福知山に帰ってしまった」
- ↑ 『大地の母 第三巻』「ゆりの怨霊」
- ↑ 7.0 7.1 18歳、16歳、19歳いずれも数え年であろう。
- ↑ 『いり豆の花』p126「(略)非業の最後を遂げた。『教祖伝』はこの日を安政元年八月十九日のこととしているが、出口家の菩提寺である西福院(綾部市東新宮寺町)にある過去帳によると、八月二十九日となっている。」
- ↑ 『いり豆の花』p128