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田村月樵
,→経歴が記されている資料
田村月樵の出生や経歴については諸説ある。
* 出口王仁三郎「{{obc|B195305c103|故郷の二十八年}}」:「父(編注・佐野梅吉)は丹波国船井郡川辺村字船岡<ref>現在の南丹市園部町船岡。</ref>の佐野五郎右衛門の八男と生まれたのである」「彼の有名なる仏画の巨匠田村月樵翁は、佐野家に生まれたのである。王仁とは従兄弟の間柄である」<ref>『[[大本七十年史]]』や『[[大地の]]母』では、佐野梅吉は[[佐野清六]]の次男ということになっている。これは戸籍にそのように記されているからのようである。王仁三郎本人の主張と戸籍の内容が異なる理由は不明。</ref>* 平井啓修「田村宗立研究─先行研究と所蔵資料の考察─」<ref>『Cross sections 京都国立近代美術館研究論集 Vol.8』2016年、24~35頁</ref>には信頼性の高い次の2つの情報が記されている。** 田村宗立自筆の経歴資料によると「弘化三年八月二〇日に丹波国舟井郡河内村で生まれ、父の名は田村式部源宗貫で中山家に仕え、母の名は尚子」** 長舟洋司(京都文化博物館学芸員)によると「弘化三年五月八日生まれ、大正七年七月一〇日没。父の名は(貫立)式部、母はナミ」「園部近在[船井郡上河内村]には母・ナミの生家があり」<ref>原拠は長舟洋司「田村宗立関連資料の整理と紹介」『鹿島美術研究』(年報第22号別冊)2005年、74頁</ref>* https://dl.ndl.go.jp/pid/778769/1/82本人の談「元私の生国は丹波の園部近在で厶いまして、父は名を式部と云ひ、公卿の中山家に仕へて居りました。夫で私は三歳の時京都に参り、此方で生長致し、其後亀岡、其頃は亀山と申しましたがそこへ参り、十歳の時まで居りました」「元治元年の五月、私は十九歳の時父は歿しまして(略)」82:本人の談「元私の生国は丹波の園部近在で厶いまして、父は名を式部と云ひ、公卿の中山家に仕へて居りました。夫で私は三歳の時京都に参り、此方で生長致し、其後亀岡、其頃は亀山と申しましたがそこへ参り、十歳の時まで居りました」「元治元年の五月、私は十九歳の時父は歿しまして(略)」<ref>中山家の中山慶子(1836~1907年)は明治天皇の生母。</ref> <ref>元治元年=1864年</ref> * https://dl.ndl.go.jp/pid/933863/1/502「弘化三年八月二十日丹波国園部に生る、田村式部氏の長男」502:「弘化三年八月二十日丹波国園部に生る、田村式部氏の長男」* https://dl.ndl.go.jp/pid/851286/1/24「田村宗貫ノ男ナリ」24:「田村宗貫ノ男ナリ」* https://dl.ndl.go.jp/pid/851283/1/141「田村宗貫ノ男ニシテ」141:「田村宗貫ノ男ニシテ」* https://dl.ndl.go.jp/pid/1183769/1/82 * https://dl.ndl.go.jp/pid/926794/1/42 * https://dl.ndl.go.jp/pid/3451915/1/178「南桑田郡柏原の人、父の源仲は孝子文右衛門の孝に感じ施薬した医師である。父の死後、母もよは月樵を連れて篠村王子の神官栗山右近の後妻となつた。月樵は十歳となつてその家庭の人となるを忌み、入洛して(略)」178:「南桑田郡柏原の人、父の源仲は孝子文右衛門の孝に感じ施薬した医師である。父の死後、母もよは月樵を連れて篠村王子の神官栗山右近の後妻となつた。月樵は十歳となつてその家庭の人となるを忌み、入洛して(略)」<ref>「柏原」は現在の亀岡市篠町の一部。明治22年(1889年)に桑田郡の篠村や柏原村などが合併し、新たに南桑田郡篠村が誕生した。</ref> <ref>「孝子」は、親孝行な子の意。</ref> * https://dl.ndl.go.jp/pid/936721/1/190 * https://dl.ndl.go.jp/pid/1874398/1/288 * https://www.mizuyama.com/C/4-tamura-souryu.htm「弘化3年(1846)8月丹波国園部に田村宗貫と佐野忠左衛門の次女ナミとの間に生まれる」(出典不明)htm:「弘化3年(1846)8月丹波国園部に田村宗貫と佐野忠左衛門の次女ナミとの間に生まれる」(出典不明)
== 外部リンク ==