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ミロク岩
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== 概要 ==
不動岩(ふどうがん、ふどういわ)は熊本県[[山鹿]]市蒲生(当時は鹿本郡三玉村大字蒲生)の山腹にある高さ約80メートルの奇岩である。霊界物語[[第2巻]]<ref>正しくは、初版は「第二巻」ではなく「第二篇」と呼ばれた。</ref>が発行(大正11年1月)される時、王仁三郎は不動岩の写真を見て「これが[[美山彦]]命の[[ロッキー山]]に立てられた石神像(せきしんぞう)だ。私が見たのとちっとも違わん」と言って、その写真が第2巻の口絵として載ることになった<ref>加藤明子著「筑紫潟 二代教主・三代教主補九州巡教随行記 第六信」『神の国』大正12年1月10日号p9加藤明子「筑紫潟 二代教主・三代教主補九州巡教随行記 第六信」p9</ref>。石神像とは、{{rm|2|3|美山彦命の出現}}で[[美山彦]]命(後に言霊別命と改名)がロッキー山に自らに似せて造った石像のことである。不動岩は「[[ミロク岩]]」と名づけられた。不動岩の岩肌にはミロク様の顔(弥勒菩薩の尊像)が現れている。
== 弥勒出現と不動岩 ==
不動岩から56間7合(約103メートル)離れた所に日露戦勝記念の祠を建立することになり、開墾に着手したところ、一個の経筒が発見された。明治39年(1906年)2月12日のことである。
その後、大正3年(1914年)8月、東京帝大の考古学者・柴田常恵(しばた じょうえ)<ref>加藤明子著「筑紫潟 二代教主・三代教主補九州巡教随行記 第六信」には柴田常恵は東京帝大教授と書いてあるが、実際には教授ではなく「人類学教室助手」である。加藤明子「筑紫潟 二代教主・三代教主補九州巡教随行記 第六信」には柴田常恵は東京帝大教授と書いてあるが、実際には教授ではなく「人類学教室助手」である。</ref>が来て経筒を調べたところ、久安元年(1145年)に[[弥勒出現成就経]]を納めて埋蔵した貴重な品だということが判った。柴田は、この付近から弥勒菩薩の尊像が必ず見つかるから捜索するようにと言って帰った。
蒲生に住む尾形太郎作は、それから8ヶ月間探したが見つからなかったため、大正4年4月4日から50日間の予定で、不動岩のすぐ前にある金刀比羅神社に参籠し、祈祷し続けた。すると45日目の5月18日に、ついに不動岩上において弥勒菩薩の尊像を発見した。
大正12年(1923年)8月7日、王仁三郎は綾部を出発して熊本県の[[杖立温泉]]に向かった。8月30日まで滞在し、続いて熊本市内で2泊し、9月1日は山鹿町(現・山鹿市)に泊まり、翌9月2日は三玉村の観音堂と不動岩に参拝した。ちょうどそのとき、関東大震災(9月1日正午に発生)の新聞号外が届けられ、震災が起きたことを知った。<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c4224|新機運の動向}}」</ref>
9月1日の正午頃、王仁三郎一行は山鹿町に入り、町が経営する温泉の附属旅館「松風館」に到着したので、近隣の支部が集まり歓迎した。王仁三郎の話を聞くために集まったが、[[宇知麿]]に霊界物語{{rm|31|2|大地震}}と{{rms|31|3|救世神}}を読めと命じて、自分は休んでしまった。夜、宇知麿はその箇所を拝読したが、翌日の号外で関東大震災が起きたことを知り、信者一同、王仁三郎の先見の明に感嘆した。[[木庭次守]]は、王仁三郎がこのとき休んだのは「霊的大活動のため」だと解している。<ref>『新月の光』0070「関東大震災と霊界物語」</ref> <ref>河津雄「西遊随行記〔四〕」『神の国』大正12年10月25日号p39河津雄「西遊随行記〔四〕」p39</ref> == 参考文献 ==* [[河津雄]]「西遊随行記〔四〕」『[[神の国]]』大正12年10月25日号* [[加藤明子]]「{{obc|Z9028|筑紫潟 二代教主・三代教主補九州巡教随行記}} 第六信」『[[神の国]]』大正12年1月10日号
== 脚注 ==