21,339
回編集
差分
Jump to navigation
Jump to search
万祥殿
,ページの作成:「'''万祥殿'''(ばんしょうでん)は、亀岡の天恩郷にある神殿・拝殿。昭和33年(1958年)に完成。 万祥殿はもともと[[出口王...」
'''万祥殿'''(ばんしょうでん)は、亀岡の[[天恩郷]]にある神殿・拝殿。昭和33年(1958年)に完成。
万祥殿はもともと[[出口王仁三郎]]が、「[[花明山]]に万祥殿の建つ時はわが大本の道輝かむ」と歌を詠んで、その建設を急いでいたが、基礎工事が終わったところで[[第二次大本事件]]により破壊されてしまった。
昭和33年(1958年)は開祖40年祭、聖師10年祭の年であり、また昭和3年のみろく大祭から30年目、3代教主・出口直日の56歳7ヶ月にあたる年でもあり、一つの大きな節目の年であった。それを記念する事業として、[[透明殿]]が建っていた跡に万祥殿を建設することになった。当時、綾部には[[みろく殿]]が建っていたが、亀岡にはまだ拝殿すらなかった。
建設委員長に[[嵯峨保二]]、造営委員長に[[出口伊佐男]]、副委員長に[[大国以都雄]]が任命され、教団あげての体制が組まれた。
昭和32年(1957年)8月7日の[[瑞生大祭]]に地搗き、10月3日に斧始めを行なう。
翌33年(1958年)8月6日に御神体が鎮座された。翌日の8月7日、瑞生大祭にあわせて完成奉告祭が行なわれ、全国から約4000人の信徒が参集した。
同年10月7日には盛大な完成祝賀祭が行なわれた。
万祥殿は神殿・拝殿・事務所の三棟からなり、鉄筋・木造併用の神殿造りに現代様式を取り入れた。礼拝殿には切妻造りの能様式の舞台や、書院造りの茶室([[万祥軒]])がもうけられたのが大きな特徴である。
三代教主・[[出口直日]]は「これらの融合する一つの建物は、[[ミロクの世]]の雛形になるものと、ひそかに誇りを感じ…聖師様のご理想であった芸術と宗教の一致という、大本の教えから生まれて来たもの」と述べている。
== 参考文献 ==
*『[[大本七十年史]] 下巻』、1042頁・1090頁~1092頁
[[Category:大本の施設|はんしょうてん]]
万祥殿はもともと[[出口王仁三郎]]が、「[[花明山]]に万祥殿の建つ時はわが大本の道輝かむ」と歌を詠んで、その建設を急いでいたが、基礎工事が終わったところで[[第二次大本事件]]により破壊されてしまった。
昭和33年(1958年)は開祖40年祭、聖師10年祭の年であり、また昭和3年のみろく大祭から30年目、3代教主・出口直日の56歳7ヶ月にあたる年でもあり、一つの大きな節目の年であった。それを記念する事業として、[[透明殿]]が建っていた跡に万祥殿を建設することになった。当時、綾部には[[みろく殿]]が建っていたが、亀岡にはまだ拝殿すらなかった。
建設委員長に[[嵯峨保二]]、造営委員長に[[出口伊佐男]]、副委員長に[[大国以都雄]]が任命され、教団あげての体制が組まれた。
昭和32年(1957年)8月7日の[[瑞生大祭]]に地搗き、10月3日に斧始めを行なう。
翌33年(1958年)8月6日に御神体が鎮座された。翌日の8月7日、瑞生大祭にあわせて完成奉告祭が行なわれ、全国から約4000人の信徒が参集した。
同年10月7日には盛大な完成祝賀祭が行なわれた。
万祥殿は神殿・拝殿・事務所の三棟からなり、鉄筋・木造併用の神殿造りに現代様式を取り入れた。礼拝殿には切妻造りの能様式の舞台や、書院造りの茶室([[万祥軒]])がもうけられたのが大きな特徴である。
三代教主・[[出口直日]]は「これらの融合する一つの建物は、[[ミロクの世]]の雛形になるものと、ひそかに誇りを感じ…聖師様のご理想であった芸術と宗教の一致という、大本の教えから生まれて来たもの」と述べている。
== 参考文献 ==
*『[[大本七十年史]] 下巻』、1042頁・1090頁~1092頁
[[Category:大本の施設|はんしょうてん]]