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みろく松
,'''みろく松'''(みろくまつ)は、[[本宮山]]の[[月山富士]]の頂上にあった神木。[[ひもろぎ松]]、[[三葉松]]とも呼ぶ。
みろく松は大正の頃、[[出口王仁三郎]]の命により、綾部の[[五六七殿]]東側に特別に瑞垣で囲って植えられていた三葉の松の実生(みしょう。つぎ木・さし木によらず種子から芽を出して生長すること)である。
[[第二次大本事件]]の際に当局の手によって切られ、根こそぎ掘り起こされてしまったが、近くに生えていた実生の苗を信者が持ち帰って密かに育てていた。それを王仁三郎の保釈出所後に献木して、亀岡の[[中矢田農園]]の王仁三郎宅(現在の[[熊野館]])の庭に植えられていた。
昭和23年([[1948年]])3月23日、[[出口澄子]](当時、[[愛善苑]]の二代苑主)の「この因縁のある松を綾部の一番よい所に植えてやろう」という命により、綾部の[[月山富士]]の頂上に移植された。
平成4年([[1992年]])2月14日、[[大本本部]]はみろく松を撤去した。
== みろく松を恐れる悪霊 ==
昭和23年3月22日、みろく松は移植のため、亀岡から綾部へと輸送された。
しかし立木と山家の間で汽車が故障して3時間ほど遅れた。
二代・出口澄子はこれを「悪霊がそれはそれは、どえらい垣をして邪魔をしたのです」「私から見るとこれは悪霊が、みろくの松の世の来るのを邪魔したのです」と言った。
このとき澄子が染筆した、三葉松の絵が書かれた書には、次のような言葉が書き記されてある。
「昭和二十三年の三月の二十二日 みろく松 亀ケ岡より帰る道 悪魔を切り抜き 聖地におさまる 親松は政府の手にてたおされど 子松残りて親の名を出す」
== 参考文献 ==
*『[[大本七十年史]] 下巻』、742頁
*『みろく松の撤去を憂う』(パンフレット)
[[Category:植物|みろくまつ]]
みろく松は大正の頃、[[出口王仁三郎]]の命により、綾部の[[五六七殿]]東側に特別に瑞垣で囲って植えられていた三葉の松の実生(みしょう。つぎ木・さし木によらず種子から芽を出して生長すること)である。
[[第二次大本事件]]の際に当局の手によって切られ、根こそぎ掘り起こされてしまったが、近くに生えていた実生の苗を信者が持ち帰って密かに育てていた。それを王仁三郎の保釈出所後に献木して、亀岡の[[中矢田農園]]の王仁三郎宅(現在の[[熊野館]])の庭に植えられていた。
昭和23年([[1948年]])3月23日、[[出口澄子]](当時、[[愛善苑]]の二代苑主)の「この因縁のある松を綾部の一番よい所に植えてやろう」という命により、綾部の[[月山富士]]の頂上に移植された。
平成4年([[1992年]])2月14日、[[大本本部]]はみろく松を撤去した。
== みろく松を恐れる悪霊 ==
昭和23年3月22日、みろく松は移植のため、亀岡から綾部へと輸送された。
しかし立木と山家の間で汽車が故障して3時間ほど遅れた。
二代・出口澄子はこれを「悪霊がそれはそれは、どえらい垣をして邪魔をしたのです」「私から見るとこれは悪霊が、みろくの松の世の来るのを邪魔したのです」と言った。
このとき澄子が染筆した、三葉松の絵が書かれた書には、次のような言葉が書き記されてある。
「昭和二十三年の三月の二十二日 みろく松 亀ケ岡より帰る道 悪魔を切り抜き 聖地におさまる 親松は政府の手にてたおされど 子松残りて親の名を出す」
== 参考文献 ==
*『[[大本七十年史]] 下巻』、742頁
*『みろく松の撤去を憂う』(パンフレット)
[[Category:植物|みろくまつ]]