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* [[出口恒]]『[[誰も知らなかった日本史]]』平成28年(2016年)5月、ヒカルランド
== 【『[[たまほこのひ可里 ==]]』関連】* [[鶴山霊石の神秘]]:[[石原雍久]]の著述。『[[おほもと]]』誌に掲載された。内容は題名通り鶴山([[本宮山]])山頂に安置された霊石にまつわる神秘についてだが、後ろ半分には、[[和田謙太郎]]と[[佐藤紋次郎]]が口述した『が語った逸話を[[たまほこのひ可里西田豊太郎]]』には、『史談会速記録』や「小伝」に記されている一般的な経歴とは異なる事柄が記されている。が記録した「霊石の奇蹟」という文献が収録されている。その中に「孝明天皇の御宸筆」の一部や「切紙神示」の予言が少し紹介されている。佐藤は名古屋で人力車夫をしていた時に客として乗せた旭形と知り合い、懇意になった。佐藤は旭形から尊皇愛国の精神を教わり、旭形を師と仰ぐようになった。佐藤が旭形から聞いた話では──旭形は孝明天皇から秘密の使命を受けていた。禁門の変の際、紫宸殿で旭形は孝明天皇から「神国の秘法」(切紙神示)を伝授され、御宸筆の「経綸書」(切紙神示で得られた未来予言)と、「御旗」、「数表」を託された。孝明天皇は「神国の秘法」によって、皇紀2600年に米国が日本に攻めて来るということや、綾部に大本が出現し、スの拇印を持った男(王仁三郎のこと)が日本を救うということを知っていた。そして孝明天皇は旭形に、自分が死んだら伊勢神宮と熱田神宮の中間にある武豊に自分を祀れ、自分はそこから日本を守護する、と命じた。そのため玉鉾神社を建設することに懸命になった。旭形は死の間際に佐藤に経綸書などを預け「皇紀2600年に70歳になる男(王仁三郎のこと)にこれを渡せ」と指示し、佐藤に後を託した。* [[玉鉾神社出口恒]]の創建にあたっては、旭形は佐藤を伴い綾部の著『[[出口直誰も知らなかった日本史]]のもとを訪ね、孝明天皇の御神号(玉鉾の神)を付けてもらっている。』:『たまほこのひ可里』全文が掲載され、論考されている。 →詳細は「* [[伊達宗哲]]著『[[たまほこのひ可里孝明天皇と大本裏の神業]]」』上下2巻:上巻の第1部で、『たまほこのひ可里』や孝明天皇、旭形亀太郎について論考されている。
旭形亀太郎
,編集の要約なし
* 明治33年(1900年)1月、[[玉鉾神社]]の神職に任じられる。
* 明治34年(1901年)3月11日<ref>亡くなった日は「旭形亀太郎小伝」や『たまほこのひ可里』では3月11日、武者『史談~』では3月12日早朝になっている。『相撲の史跡6』によると、過去帳・墓碑では3月10日、戸籍では3月12日ということである。</ref>、帰幽。享年60歳(満58歳)。
== たまほこのひ可里 ==
[[佐藤紋次郎]]が口述した『[[たまほこのひ可里]]』には、『史談会速記録』や「小伝」に記されている一般的な経歴とは異なる事柄が記されている。
佐藤は名古屋で人力車夫をしていた時に客として乗せた旭形と知り合い、懇意になった。佐藤は旭形から尊皇愛国の精神を教わり、旭形を師と仰ぐようになった。佐藤が旭形から聞いた話では──旭形は孝明天皇から秘密の使命を受けていた。禁門の変の際、紫宸殿で旭形は孝明天皇から「神国の秘法」(切紙神示)を伝授され、御宸筆の「経綸書」(切紙神示で得られた未来予言)と、「御旗」、「数表」を託された。孝明天皇は「神国の秘法」によって、皇紀2600年に米国が日本に攻めて来るということや、綾部に大本が出現し、スの拇印を持った男(王仁三郎のこと)が日本を救うということを知っていた。そして孝明天皇は旭形に、自分が死んだら伊勢神宮と熱田神宮の中間にある武豊に自分を祀れ、自分はそこから日本を守護する、と命じた。そのため玉鉾神社を建設することに懸命になった。旭形は死の間際に佐藤に経綸書などを預け「皇紀2600年に70歳になる男(王仁三郎のこと)にこれを渡せ」と指示し、佐藤に後を託した。[[玉鉾神社]]の創建にあたっては、旭形は佐藤を伴い綾部の[[出口直]]のもとを訪ね、孝明天皇の御神号(玉鉾の神)を付けてもらっている。
→詳細は「[[たまほこのひ可里]]」
== 参考文献 ==
【旭形亀太郎、[[玉鉾神社]]関連】
* [[史談会速記録]]:幕末・維新の証言録。第274輯に、明治31年(1898年)に旭形亀太郎から聞き取った談話が収録されている。
* [[照日乃影]]:[[玉鉾神社]]と旭形亀太郎を紹介する書物。巻末に「旭形亀太郎小伝」が収録されている。明治35年(1902年)発行。
* 武者成一<ref>武者成一(むしゃ せいいち、1920~2006年)大正9年(1920年)1月1日生まれ。陸軍士官学校53期。航空自衛隊第6航空団司令、第4術科学校長などを歴任。空将補。平成18年(2006年)7月23日帰幽。〔防衛庁広報1969年4月18日6頁{{ndldl|9664766/1/4}}。『自衛隊年鑑 1973年版』820頁(写真あり){{ndldl|12287963/1/428}}。『偕行』平成18年(2006年)11月号、偕行社、56頁「訃報」{{ndldl|11435753/1/29}}〕</ref>『史談 土俵のうちそと』平成14年(2002年)11月、雲母書房、327~358頁「旭形亀太郎の業績を偲ぶ 相撲史外伝」
* 加治将一『[[幕末戦慄の絆]]』平成26年(2014年)4月、祥伝社
== 関連項目 ==