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たまほこのひ可里

18 バイト追加, 2024年7月6日 (土)
反響・批評
陰謀論作家として有名な太田龍は、平成10年(1998年)12月に『玉鉾の神遺勅──孝明天皇の遺勅と大本出現の予言』と題する36頁の小冊子を入手した(『たまほこのひ可里』を活字化したもの。発行日・発行者不明。愛善苑関係者が作成したものか?)。太田は平成14年発行の著書『天皇破壊史』<ref>太田龍『天皇破壊史』平成14年(2002年)6月、成甲書房、106~128頁</ref>の中で、〈大本教の宣伝臭味を取り除けば、佐藤紋次郎口伝の大筋は、確かに本物である〉<ref>同書117頁</ref>と評している。太田は、旭形亀太郎や玉鉾神社創建にまつわる部分は真実と認めるが、孝明天皇の遺勅(経綸書)が大本出現を予言していることには否定的であり、仮に孝明天皇の御宸筆が偽造ではなく真実であったとしても〈私は否定する〉<ref>同書116頁</ref>と完全に拒絶している。太田が孝明天皇の遺勅を頑なに否定する理由は、そもそも幕末に「米国」とか「国旗日ノ丸」という言葉は使われていない、つまり時代考証的に偽書だということだけでなく、〈出口王仁三郎は明治以後簇生《そうせい》した西洋かぶれの宣教詐欺師のひとりとしか見ておらず、この種の宣伝は全く信用していない〉<ref>同書109頁</ref>ためである。<ref>平成13年(2001年)3月9日に太田は玉鉾神社を参拝し、三代宮司(旭形光彦)未亡人と、四代宮司(旭形幸彦)に会って話を聞いている。同書126頁。</ref>
画家で詩人の由利渓は、平成11年(1999年)から翌12年にかけて雑誌『日本及日本人』に連載した小説「蘇る源の道」の中で、玉鉾神社の三代宮司・旭形光彦を登場させて主人公と会話させている画家で詩人の由利渓は、平成11年(1999年)から翌12年にかけて雑誌『日本及日本人』に連載した小説「蘇る源の道」の中で、玉鉾神社の三代宮司・旭形光彦(てるひこ)を登場させて主人公と会話させている<ref>由利渓「蘇る源の道〈二〉─三種神器」『日本及日本人』平成12年(2000年)1月号、131~139頁。玉鉾神社が舞台になるのは137頁から。{{ndldl|3368412/1/76}}</ref>。そこで光彦宮司は、初代宮司・亀太郎から聞いた話として孝明天皇に関わる逸話を語っているが、その内容は『たまほこのひ可里』や『史談会速記録』『照日乃影』(旭形亀太郎小伝)に記されていることと異なる。『たまほこのひ可里』等では錦旗(御旗)と守護符(五鈷杵)は禁門の変の当日に受け取ったことになっているが、「蘇る源の道」では、孝明天皇が崩御した当日に受け取ったとされている。──御座所近くで警護していた亀太郎は天皇が仰向けに倒れているのを見つけた。すると天皇は懐中から取り出した錦旗と守護符を亀太郎に渡して「日本の……真ん中……守る」と途切れ途切れにしゃべったのが最後の言葉になった。亀太郎は天皇を御典医のところへ運ぼうとしたら、二位局(中山慶子=孝明天皇の典侍で、明治天皇の生母)に、御典医の部屋に運ぶと大騒動になるから私の部屋へ運びなさいと言われた。天皇を運んだ後は二位局に下がれと言われ部屋を出た。天皇はそのまま崩御された。錦旗と守護符は天皇に返すことが出来なかったので、神社を建てて祀ることにした。──主人公が光彦宮司に「小伝にある記述内容とは大分違うようですね」と質問すると、光彦宮司は「本当のことは誰にも言えなかったのではないでしょうか。晩年になってから身内にだけ漏らしたのだと思います」と語っている。これは小説形式で書かれてあるが、著者の由利が実際に光彦宮司に取材して聞いたことは事実だと思われる。由利は『神の国』連載の出口和明の記事を知っているが<ref>同書137頁下段に〈創建者の旭形亀太郎については(略)大本教愛善苑刊行の「神の国」誌平成十年六月号などに詳しい〉と書かれてある。</ref>、この小説では孝明天皇の遺勅(経綸書)については触れられていない。
太田龍も由利渓も、平成10年(1998年)1月に出口和明が『たまほこのひ可里』を発見したことによって玉鉾神社に注目するようになった。そしてまたどちらも、孝明天皇暗殺説や明治天皇すり替え説(明治維新の中枢勢力によって本物の皇太子・睦仁親王は暗殺され、長州出身の大室寅之祐が偽の睦仁親王=明治天皇となったという陰謀論)を前提として論を展開している。これは『たまほこのひ可里』発見の1年前に刊行された、鹿島曻『裏切られた三人の天皇』<ref>鹿島曻『裏切られた三人の天皇 ──明治維新の謎』平成9年(1997年)1月、新国民社</ref>(前述の暗殺やすり替えを論じている)にも大きな影響を受けているようである。「玉鉾神社の創建をなぜ当局はなかなか認めなかったのか?→当局(明治の元勲)が孝明天皇を殺したから」という論法である。

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