21,339
回編集
差分
Jump to navigation
Jump to search
熊野新宮神社
,→略歴
神社の歴史は古文書や伝承によると次のようになる〔[[#参考文献]]〕。
鎌倉時代初期の治承年間(1177~1181年)に、丹波の知行国主だった平重盛(1138~1179年)<ref>平重盛は平清盛の長男。重盛は永万元年(1165年)に丹波の知行国主となった〔『熊野新宮神社御由緒略記』1頁〕。</ref>が、綾部を巡遊した時に、[[由良川]]に臨む[[並松]]の佳景が熊野(平氏は熊野権現を崇敬していた)に似ているので<ref>実際の熊野は、那智山の北麓から東麓にかけて熊野川が流れている。その熊野川沿岸の風景に、由良川沿岸の並松の風景が似ていた、ということか?</ref>、三熊野(熊野三社)をこの地に勧請し、「不時の詣」つまり不測の時に熊野まで行かなくても熊野権現に参拝できるようにした。、[[三熊野]]([[熊野三社]])をこの地に勧請し、「不時の詣」つまり不測の時に熊野まで行かなくても熊野権現に参拝できるようにした。
三熊野の一つは本宮山南麓にある那智山 正暦寺(なちさん [[正暦寺]](なちさん しょうれきじ)である<ref>ただし正暦寺の由緒では天慶5年(942年)に空也上人が観音様を祀ったのが始まりとされる</ref>)。
他の二つは本宮と新宮である。新宮は本宮山の北麓(あるいは東麓)に、本宮は東麓にあった。<ref>実際の熊野三山では、那智山の北麓に本宮(熊野本宮大社)があり、東麓に新宮(熊野速玉大社)、南麓に熊野那智大社がある。</ref>
明治37年(1904年)、兵庫県の西宮神社(えびす神社)の分霊を勧請し、熊野新宮神社に祭られる(末社)。
大正6年(1917年)皇后が綾部に行啓したことをきっかけに、宮中の紅葉山御養蚕所<ref>皇居内に現在でもある。<wp>紅葉山御養蚕所</wp></ref>に祭られている蚕祖神の分霊(大宜津比売神)を勧請し、熊野新宮神社に合祀される(相殿)。に祭られている蚕祖神の分霊([[大宜津比売神]])を勧請し、熊野新宮神社に合祀される(相殿)。
昭和30年代に市民センター建設の計画が進み、熊野新宮神社に移転してもらい、その跡地に市民センターが造られることになる。神社は西側に隣接する「波多野記念館」(グンゼ創業者の波多野鶴吉を顕彰する綾部市営施設。大正9年建設で老朽化していたため取り壊し)の跡地と敷地を交換することになり、そちらに社殿を建てて遷座した。