21,339
回編集
差分
Jump to navigation
Jump to search
寅天堰
,編集の要約なし
* [[福島久子]]の茶店は[[喜三郎]]と邂逅した後ほどなく、山陰線の敷設のため立ち退きとなった<ref>福島久子の茶店に上田喜三郎が立ち寄ったのは明治31年(1898年)旧6月(詳細な日付は不明)。その約1年後の明治32年(1899年)8月に山陰線の嵯峨駅~園部駅間が開業している。亀岡駅・八木駅・園部駅もこの時に開業した。</ref>。茶店の跡は現在は線路が通っている。<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c1511|初参綾への道}}」:「ひさの茶店は、喜三郎に開祖のことを依頼したのちに、ほどなく、山陰線敷設工事のため立退きとなった」</ref> <ref>『[[大地の母]]』(みいづ舎版)第8巻「錦の機」p.102「寅天堰の茶店跡を二本の鉄道が貫いている」。</ref>
* 亀岡には上流の寅天堰から下流の上中島堰まで7ヶ所に堰があった。しかし昭和34年(1959年)8月の台風7号、9月の台風15号(伊勢湾台風)によって各堰は大きな被害を受けたため、昭和38年(1963年)に7ヶ所の堰を統合し、寅天堰があった場所に「上桂川統合堰」が造られた。<ref>[https://www.pref.kyoto.jp/nantan/do-kikaku/documents/1301392767331.pdf 『保津川かわまちづくり計画』p.5「1.4 保津川の利用」] 平成23年(2011年)3月、京都府南丹土木事務所・亀岡市</ref>
* 伝承によると、天正(16世紀)以降、「寅天(とらま)長者」と称する人物が[[大井川]]に堰を造った。に堰を造った<ref>{{pid|9576250/1/150|八木町誌}}八木豊太郎・編、昭和62年(1987年)、臨川書店、pp.263-265「一一一、虎松口と鳴瀧口」</ref>(ので「寅天堰」と呼ばれるようになった)。
== 外部リンク ==