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'''Onisavulo'''は、「[[王仁三郎]]」の[[エスペラント語]]での表記。「人々(oni)」を「救う(sav)」「人(ulo)」つまり救世主というような意味になる。
この王仁三郎の名前の意味に最初に気がついたのはエスペランティストの[[由里忠勝]](ゆり ただかつ、1900-1994年<ref>生没年は[https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00402549 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス]による。</ref>)である。東京商科大学(現在の一橋大学)の学生だった由里はエスペラント語を習い始め、一年後には会話書『実用エスペラント会話』を書いて出版した。大正12年(1923年)暑中休暇で郷里の大江町(河守の出身)に帰省し、丹州時報(舞鶴の地方紙)に「国際語エスペラント」と題する論文を三日間にわたって掲載した。その記事を王仁三郎が知り、エスペラント語を学びたいので綾部へ来て欲しいという趣旨の手紙を送った)である。東京商科大学(現在の一橋大学)の学生だった由里はエスペラント語を習い始め、一年後には会話書『実用エスペラント会話』を書いて出版した。大正12年(1923年)暑中休暇で郷里の大江町河守に帰省し、[[丹州時報]](舞鶴の地方紙)に「国際語エスペラント」と題する論文を三日間にわたって掲載した。その記事を王仁三郎が知り、エスペラント語を学びたいので綾部へ来て欲しいという趣旨の手紙を送った<ref>[[大本エスペラント研究会]]が設立されたのはこの年の6月28日。</ref>。由良は喜んで綾部の大本を訪ね、出版したばかりの会話書を王仁三郎に贈った。翌日から由良は大本でエスペラント語の講習を開くことになり、弥勒殿の大広間で百人あまりの信者を相手に毎晩講義した(8月1日から5日まで)。<ref>由里「六十年前の回顧」由里「六十年前の回顧」による。</ref> <ref>「[[大本年表]]」大正12年(1923年)7月31日の項に「日本エスペラント学会雑誌レヴヲ・オリエンタの編集員由里忠勝氏、大本エスペラント会の状況視察のため訪問」、8月1日の項に「由里忠勝講師によるエスペラント会話講習会、五日まで」とある。10月23日にも「エスペラント講師由里忠勝氏来綾、向う一週間エスペラントの講習会を開催」とある。『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c4222|エスペラントとローマ字の採用}}」にも記載あり。「Onisavulo」の件を王仁三郎に話したのは8月なのか10月なのかは不明。</ref> <ref>由里「六十年前の回顧」には「僕は本年八十三歳(略)大正十二年、今から六十二年前、僕が二十一歳の時」からエスペラント語を勉強し始めたと書いてあるが、「大正十二年」ではなく「大正十年」か「大正十一年」の間違いであろう。『実用エスペラント会話』を出版したのが大正12年(1923年)である。大正15年(1926年)に出版された由里忠勝著『[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/914499/3 模範エスペラント会話]』の「自序」に「実用エスペラント会話」を出版して「満三ヶ年」と書いてある。</ref> <ref>由里の講習会には王仁三郎も参加していた。講習会が終わって二日後の8月7日から王仁三郎は熊本県小国の杖立温泉に逗留したが、滞在中に『[[記憶便法英西米蘭統作歌集]]』をわずか4日間で作り上げた。由里「六十年前の回顧」によると、王仁三郎は全紙に「言霊の尊き由を千里まで忠しく伝う勝良男(ますらを)の君」という歌を書いて由里に渡したが、そこにすでに「英西米蘭統」という文字が書いてある。</ref>
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