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出口王仁三郎
,→第二次大本事件以降
== 第二次大本事件以降 ==
== 生活 ==
=== 飲酒 ===
王仁三郎は基本的に酒は飲まなかった。全く飲めなかったわけではなく、多少は飲んだ。巡教先で食事の際に酒を出されると一杯飲んですぐに盃を伏せた<ref name="shinginidou_p290">[[大国美都雄]]『[[真偽二道]]』「尽きぬ思い出」p290</ref>。<ref>{{kgm|569|大本人の守護}}:「王仁が酒が飲めぬから、酒飲のお客に対して、ツイうつかりして満足させることが出来ないのを遺憾に思ふ」</ref>
王仁三郎は飲酒について否定的である。飲酒は「日本の悪い習慣だ」、宣伝先で酒を出された場合「宣伝使は盃三杯飲んだら、それが限度で、それ以上飲むことはならん。酒は慎しまなくては乱れる。まして酒を飲みつつ神様の話や教えの話をするのは不謹慎である」「大本の宣伝使は心得た上にも心得て酒は慎しまなくてはいかん。さもなくば神の道を説いてもなんの効果もない」、神様にお神酒を供えるのはいいが「そのお下りのお酒をいただくのは、一杯か多くて三杯と決っている」「神酒なら何杯飲んでもよいと言って、何杯もガブガブ飲む者がいるが、それは神酒ではない。悪酒だ」と王仁三郎は信者に語っている<ref name="shinginidou_p290" />。
=== 喫煙 ===
王仁三郎は「敷島」や「朝日」という銘柄の煙草を好んで吸っていた。しかし、ふかすだけであった。信者の中には、王仁三郎が吸った煙草の吸い殻を拾って吸って喘息が治ったという人もおり、御神徳を求めて吸い殻を持って帰る信者もいたので、王仁三郎は吸ったふりをして病気が治るように祈願していた。<ref>[[大国美都雄]]『[[真偽二道]]』「尽きぬ思い出」p289:「郷に入っては郷に従えだ。迷信であろうが、救うという神業は、あらゆる形で自由自在に行われなくてはならん。ワシのタバコの吸い殻を持って帰って喘息が治った人もある。それだからワシのタバコの吸い殻を持って帰る人もいるので、吸ったふりをしてその実は祈願しておくのだ」</ref> <ref>[[三浦玖仁子]]『[[花いろいろ]]』p92:「ちなみに聖師さまは、敷島、朝日がお好みでした。しかしお吸いになるより、おふかしになるのです。そして、その吸殻でぜんそくの人達がお蔭を頂かれました」</ref>
開祖・[[出口直]]も二代・[[澄子]]も煙草が好きであった。しかし出口直はあまり吸わなかった。<ref>{{kgm|637|直美と操}}:「開祖様は又煙草がお好きであつたが」</ref> <ref>『[[開祖伝]]』「{{obc|B100600c34|御日常}}」:「煙草はお好きでしたが、女が煙草を吸うのは見苦しいと言って辛抱していられました」</ref> <ref>『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c222|2 開祖の人柄}}」:「タバコは開祖の生家の前に、葉タバコをきざんであきなっていた店があったので、それとなく小さいときから煙草の香りにしたしんではいたが、二代すみの手にしている煙管をみて、一服吸ったことがあったという程度で、平常煙草をのんだりするということはなかった」</ref> <ref>[[出口澄子]]『[[幼ながたり]]』「{{obc|B124900c34|尉と姥}}」:「私もこのごろは、すっかりとタバコを止めまして、タバコの代わりにお水を頂いとりますんじゃ」</ref>
* <wp>敷島 (たばこ)</wp>
== 家族 ==
澄子との間に男子2人・女子6人の子ができたが、そのうち男子2人・女子1人は小さい時に帰幽したので、一般的には子は女子5人と思われている。