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大正日日新聞社
,→概要
しかし朝日・毎日の販売網を破ることが出来ず、経営難に陥り、一年足らずで身売りをする羽目になった。大本に買収の話が持ち込まれ、大正9年(1920年)7月中旬から交渉が行われた。8月5日に亀岡で買収の仮契約が、8月14日に本契約が取り交わされた。買収金額は表面的には35万円とされたが、実際には50万円が支払われた。<ref name="B195401c2351" />
最初の主な人事は、社主・[[出口王仁三郎]]、社長・[[浅野和三郎]]、編集局長・[[岩田久太郎]]、編集顧問・鳥居素川などであった。信者ではない旧社員と、信者との混成であったため、意見の対立が絶えず、軋轢が生じたものの、9月25日に復刊第一号を発行。発行部数は48万部だった。<ref name="B195401c2351" /> (大正10年元日時点での大阪毎日新聞の発行部数は約69万部<ref>小野秀雄・著『大阪毎日新聞社史』(大正14年4月、大阪毎日新聞社・東京日日新聞社)p140~141([https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1021556/82 NDLDC])には大阪毎日新聞の大正3年から13年までの元旦号の発行部数が掲載されている。それによると大正8年は513,414部、9年は602,408部、10年は686,539部、11年は824,941部である。</ref>)
紙面は、大本神諭の予言と警告を時事問題と付き合わせて一般の人々にも理解しやすく解説し、立替え立直しの神意を伝え、社会の革正を促そうという主張が内包されていた。<ref name="B195401c2352">『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c2352|新聞の論調}}」</ref>