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裏の神諭
,→概要
「裏の神諭」という言葉が使われ出したのは『[[神霊界]]』大正6年(1917年)11月1日号からだと思われる。それ以降、何回かに亘って「裏の神諭」の名称で同誌上で発表された文献が、狭義の裏の神諭である。その数は「五百巻」<ref name="uranoshinyu_t8">『裏の神諭』「解説」p1:「実は『裏之神諭』は総計五百巻にも上る浩瀚のものであつたので</ref>あったとも「数千冊」<ref>『[[神霊界]]』大正6年(1917年)11月1日号p16:「書き誌されしもの数千冊ありけるが、明治三十六年と仝三十八年の二回に渡りて、大本の役員等、変性女子の書きし物は、残らず乱世の根本なりと誤解し、一所に山の如く集め火を放ちて焼棄したるを以て、今は只々一二人の手に在りし小部分の遺れるのみ」</ref>あったとも言われるが、当時の役員らによって焼き捨てられしまい、残ったものはわずか「十幾冊」<ref name="uranoshinyu_t8" />しかない。
広義の裏の神諭には、それ以外の文献も含まれるが、具体的にどの文献を裏の神諭と呼ぶか決まっているわけではない。『[[大本史料集成]]』では出口直の昇天までに王仁三郎が書いた教えに関する文献すべてが裏の神諭であるとして、次の文献を掲げている<ref>『[[大本史料集成]] 1』池田昭「解題」p715</ref>。しかし『裏の神諭(研修資料』では「開祖昇天までの出口聖師の著作を全部「裏の神諭」というかどうか問題が残る」としている。しかし『裏の神諭(研修資料)』では「開祖昇天までの出口聖師の著作を全部「裏の神諭」というかどうか問題が残る」としている<ref>『裏の神諭(研修資料』「復刻によせて」:「「裏の神諭」の中には論文、随筆調のものがあり大正七年開祖昇天までの出口聖師の著作を全部「裏の神諭」というかどうか問題が残るが、経の筆先、緯の筆先であったものが、だんだん「表の神諭」「裏の神諭」と表現されるようになったともとれる」『裏の神諭(研修資料)』「復刻によせて」:「「裏の神諭」の中には論文、随筆調のものがあり大正七年開祖昇天までの出口聖師の著作を全部「裏の神諭」というかどうか問題が残るが、経の筆先、緯の筆先であったものが、だんだん「表の神諭」「裏の神諭」と表現されるようになったともとれる」</ref>、
* 聖教本義