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黄泉島

906 バイト追加, 2023年7月3日 (月) 11:59
ムー大陸
== 概要 ==
* 表記ゆれ:黄泉の島(よもつのしま) <ref>使用回数は、黄泉島69回、黄泉の島14回</ref>
* 別名:ムの島
* 「黄泉国」とも呼ばれるが、黄泉国には黄泉島以外の意味もある。→「[[黄泉国]]」を見よ
* 初出:{{rm09|9|0003|総説歌}}(黄泉の島)、{{rm|9|5|海上の神姿}}(黄泉島)
== ムー大陸 ==
[[ファイル:大阪毎日新聞 昭和7年6月19日朝刊p7.jpg|thumb|『大阪毎日新聞』昭和7年(1932年)6月19日朝刊p7に掲載されたチャーチワードのムー大陸説を紹介する記事。]]
黄泉島とは、はるか太古に太平洋にあり、沈没して沈んでしまった、いわゆるムー大陸のことである。
1浬(海里)≒1.852キロメートルで計算すると、横(東西)3100浬は約5741キロメートル、縦(南北)2700浬は約5000キロメートルになる。
王仁三郎は昭和7年(1932年)10月?頃に大阪毎日新聞でムー大陸の記事を見て、ムー大陸とは「霊界物語中に示された黄泉島の事である」と発言している。〔王仁三郎は昭和7年(1932年)『大阪毎日新聞』6月19日朝刊<ref>『[[昭和青年]]』昭和7年(1932年)8月号p79に「六月廿一日の大毎紙上に 噴火のため海底へ没した文化発祥の花園「ム」大陸奇談 なる題下に」云々という記事があるが、実際には6月19日の朝刊に掲載されている。</ref> <ref>その後『サンデー毎日』昭和7年8月特大号、10月2日号にムー大陸が紹介された。参考「[https://myth-imagination.net/lostcontinents/continent-mu/1921/ 日本における最初期の「ムー大陸」紹介(1)]」</ref>)でムー大陸の記事(画像参照)を見て、ムー大陸とは「霊界物語中に示された黄泉島の事である」と発言している。〔{{kgm|561|「ム」大陸は黄泉島}}、初出は『神の国』昭和7年10月号〕
ちなみにチャーチワードが『The Lost Continent of Mu』を発刊したのは1926年、『The Children of Mu』(邦題『南洋諸島の古代文化』昭和17年、岡倉書房)を発刊したのは1936年であり、王仁三郎はそれより数年以上前に霊界物語において太平洋の失われた大陸の存在を発表していたことになる。Mu』<ref>邦題『南洋諸島の古代文化』昭和17年(1942年)、岡倉書房</ref>を発刊したのは1936年であり、王仁三郎はそれより数年以上前(1922年)に霊界物語で太平洋の失われた大陸の存在を発表していたことになる。
[[木庭次守]]編『[[新月の光]]』には次のことが記されている。
== 関連項目 ==
* [[黄泉比良坂の戦い]]
* [[黄泉]]:黄泉が付く単語一覧。
* [[アトランティス大陸]]
== 外部リンク ==

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