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西田元教

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'''西田元教'''(にしだげんきょう、1872~1958年)は、大本信徒。[[出口王仁三郎]]の義弟(妹・[[雪子]]の夫)。旧名・森元吉。本名・西田元吉。『[[王仁文庫]]』では「元治郞」という名で記されている<ref>{{obc|B115006c04|『王仁文庫 第六篇 玉の礎』19~29}}</ref>。
 
西田は大本の草創期に王仁三郎に従い宣教に尽力した。また、ある時に大本を追放され、王仁三郎の密命で二個の玉を預かり保護するという御用を行った。
== 略歴 ==
== 大本追放 ==
西田はある時(時期不明だがおそらく昭和2年頃だと思われる西田はある時(時期は諸説あり。後述)王仁三郎によって大本から追放された。次は西田の親戚の[[森恵昭]]<ref>「カミにも裏表あり」によると西田は昭和32年に玉を大本に返還する際に「聖師から預かって三十年ぶりに拝まして貰うんや」と発言しているので、追放時期は昭和2年頃だと思われる。</ref>)王仁三郎によって大本から追放された。次は西田の親戚の『[[出口聖地と一厘の仕組]]』p.10によると[[森恵昭]]の大本入信は昭和26年春。</ref>による回顧談「カミにも裏表あり」([[#参考文献]]参照)に記された西田の発言である。
{{inyou|(略)誰がどう言おうとも聖師一筋、神業一途で頑張ったのや。そりゃ並の神業やない、二人だけ<ref>王仁三郎と西田の二人</ref>の秘密のことも、どれだけあったか知らん。(略)そのワシが罪もないのに聖師に裁判にかけられたり、『西田は天の賊やから西田を見たら殺して呉れ』とまで追いつめられた。それを真に受けた井上や桜井達<ref>井上留五郎と桜井重雄か?</ref>は子分に手配して本気でワシを殺す計画まで立てよった。もう、いよいよ殺されると観念して大本を出たんや、仕方のないこととは言え、思へば聖師の妹や!その可愛い妻を残して行く当てもない夜逃げや!(略)やっぱり隠れ家は大阪しかなかったのや(略)お伊勢はん信仰に見せかけの『神勇会』を作って食いつなぎをしていたんや(略)そして大本色が抜けたと思っていたところへ…ヒョッコリ戸障子を叩く者が現われたんや、何とそれがワシを追い出した張本人の兄貴(聖師)だったんや!|森恵昭「カミにも裏表あり」}}
王仁三郎はこの時、西田に二個の玉を玉を預けた。次は「カミにも裏表あり」に記された王仁三郎の発言である。王仁三郎はこの時、西田に二個の玉を玉を預けた。次は「カミにも裏表あり」に記された王仁三郎の発言である(ただしこれらの発言は西田から森が伝え聞いた記憶であり、実際にそのように話したとは限らない)。
{{inyou|(略)やがて日本も、もう二へん立替えをやらんならん。だけどなあ、お前もワシも人間に生まれた身や、限りのある肉体や!だから万古変わらぬ世界立替えの神力に繋がる証拠の品が要るのや。お前も一つは見たことがあるやろ、まだ見せたことのない宝は、今ここへ持って来た、これや。これはワシも手放さず側へ持っていたいが、これからの大本は次から次へと魔の手が伸びて来る。役員じゃ、幹部じゃ言うて威張ったところで、金神様の代わりは出来ん、屁の突っ張りにもならん奴らばかりや。だから秘密を明かす人間はお前しかおらんのや、西田を見たら殺してくれと頼んだのは、この秘密を守るための手段や。この神界の秘密のためとは言え、お前や妹ゆきにもすまんことやけど、よう不足に思わんと朝夕神様に仕えてくれて、神様も今日の日を非常に喜んでくれているが、万事一寸の狂いもなく立替え立直しの神業の出来るのは、お前あってのワシや。見込んだりや出口王仁三郎!見込まれたりや西田元教、申すまでもなく他言はまかりならんど!(略)この○○は時節が来ればドエライ働きをする大切なものだが、天界からのお手伝いがない限り、大本の中でこれを使える人間は一人もおらんのや。例えこの王仁が再びお前を呼ぶようなことがあっても、天界のお許しのない限りは、ワシの使いと名乗る者が来ても何も知らぬで通すやうにしてくれ、肉体的には今夜がお前との最後の別れと承知してくれ(略)|[[森恵昭]]「カミにも裏表あり」}}
西田は王仁三郎から「天の賊」と罵られ大本を追放されたが、実はその裏で、二個の玉を保管するという秘密の神業をさせられていたことになる。
=== 出口禮子の説 ===
[[出口禮子]]はこの玉は王仁三郎が入蒙した際に、蒙古で入手したものではないかと推測している。次は[[出口禮子]]が平成4年(1992年)に機関誌上で発表した歌([[#参考文献]]参照)である。(全部で23首の歌が掲載されているが一部の歌は省いた。フリガナは《》内に入れた)
蒙古より持ち帰られしかかの地にて密かに会わる王清泰思ほゆ|[[出口禮子]]の歌([[#参考文献]]参照)}}
この[[出口禮子]]の歌によると、王仁三郎が西田に玉を預けたのは大正13年(1924年)7月13日である。しかし大正15年に西田は宣伝使試補に任命されているため、まだ大本を追放されていない。また、この時期、王仁三郎はまだ蒙古にいた。6月21日にの歌によると、王仁三郎が西田に玉を預けたのは'''大正13年(1924年)7月13日'''である。しかし大正15年に西田は宣伝使試補に任命されているため、まだ大本を追放されていない。また、この時期、王仁三郎はまだ蒙古にいた。6月21日に[[パインタラ]]で捕まった王仁三郎一行は、7月6日には[[鄭家屯]]から[[奉天]]の日本総領事館に送られ、7月21日に奉天から帰国の途に就く。したがって7月13日に大阪の西田に玉を預けることは不可能である。それに、「大阪の拘置所のはず」と歌にあるが、帰国した王仁三郎が大阪で収監されたのは7月27日である。いろいろと疑義がある歌だが、この歌は森恵昭が出口禮子に伝えたことが元になっているので、どちらかの記憶違いか誤記だと考えられる(あるいは王仁三郎が霊体で現れて西田に玉を預けたということか?)。 === 泉田瑞顕の説 ===[[泉田瑞顕]]著『[[出口聖地と一厘の仕組]]』によると、泉田は昭和56年(1981年)5月21日、[[中矢田]]で<ref>泉田は前日の「いづとみづの会」の会合に出席していた。</ref>森恵昭に出会い、西田元教の話を聞いた。すでに泉田は昭和28年(1953年)6月19日に霊夢によって、[[八重野]](宇知麿の妻)宅にその玉が保管されていることを知っており、森の話は霊夢と一致していた。その霊夢によると、二個の玉は大正5年(1916年)に王仁三郎が[[神島]]で見つけた「金剛不壊の宝珠」と「紫の玉」である(霊界物語に登場する「[[三つの玉]]」を参照)。 西田は大正5年5月の[[神島開き]]の前、約1ヶ月間、王仁三郎の内命によって高砂に滞在し、色々な準備をしていた。<ref>『出口聖地と一厘の仕組』p.9</ref> 王仁三郎が西田に玉を預けた時期は、[[第一次大本事件]]で収監された王仁三郎が責付出獄した'''大正10年6月17日の直後'''であると泉田は書いている<ref>『出口聖地と一厘の仕組』p.9</ref>。また、西田が大本を追放され、一般信者の目から行方不明となった時期は、'''大正13年末から14年の初め頃'''だと泉田は書いている。つまり泉田によると、玉を預かってから大本を追放されたということになる。 しかし機関誌『[[真如の光]]』昭和3年(1928年)11月25日号p.80の秋季大祭の直会係として「西田元教」の名の記載があるため、少なくともこの時までは大本を追放されていない<ref>『[[真如の光]]』誌には祭典の直会係として時々「西田元教」の名が書いてある。確認したのは次の通り。大正15年(1926年)11月15日号p.40秋季大祭、昭和2年(1927年)2月15日号p.46節分祭、同年4月15日号p.41春季大祭、昭和3年(1928年)2月15日号p.128節分大祭、同年11月25日号p.80秋季大祭。</ref>。 === 追放時期 ===森恵昭「カミにも裏表あり」によると西田は昭和32年(1957年)に玉を大本に返還する際に「聖師から預かって三十年ぶりに拝まして貰うんや」と発言している。ちょうど30年前は昭和2年(1927年)である。仮に昭和4年(1929年)に追放され、数ヶ月後に玉を預かったとするなら28年なので、四捨五入して30年ぶりだと言える。出口禮子は大正13年(1924年)に玉を預かったと主張しているが、それだと33年前になり、これも四捨五入すれば30年ぶりだと言える。泉田瑞顕は大正10年(1921年)に玉を預かったと主張しているが、それだと36年前になり、30年ぶりという表現は少々違和感がある。 また、森恵昭と出口禮子の主張だと、西田は大本を追放された後、王仁三郎から玉を預かったことになっている。しかし泉田瑞顕は、玉を預かってから追放されたと主張している。 出口禮子も泉田瑞顕も情報源は森恵昭だが、大本追放の時期や玉を預かった時期、またその順序(追放が先か、玉を預かったのが先か)について、各自異なる主張をしている。それはそもそも森自身が西田から伝え聞いたエピソードであるため、よく憶えていないのだと考えられる。また各自が自分勝手な解釈や推測をして、それと客観的事実とが混同してしまっているため、このような相違が生じるのだと考えられる。
== 参考文献 ==
* [[森恵昭]]「カミにも裏表あり」『[[愛善世界]]』平成20年(2008年)4月号、p72-82
* 『[[神の国]]』平成4年(1992年)4月号「歌の瑞垣」、p34掲載の[[出口禮子]]の歌
* [[泉田瑞顕]]『[[出口聖地と一厘の仕組]]』昭和57年(1982年)6月、瑞泉郷建設運動本部、pp.1-20「神宝秘蔵とその再現」
* 上南部誌編纂委員会・編『上南部誌』昭和38年(1963年)、南部川村、p.596、{{ndldl|3020954/1/340}}
* 『御坊市史 第2巻(通史編 2)』昭和56年(1981年)、御坊市、p.903、{{ndldl|9574811/1/474}}

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