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耀盌

644 バイト追加, 2023年11月20日 (月) 01:34
脚注
== 名称 ==
「耀盌」は王仁三郎が命名したものではない。陶芸評論家の[[加藤義一郎]]が名付けた名称である。が名付けた名称である<ref>[[大本教学研鑽所]]・編『[[大本のおしえ]]』(昭和42年、天声社)p216「最近とくに、世人を感動せしめたものに、手造りの楽焼茶盌がある。これを〝耀盌〟と名づけて、初めて世に紹介したのは、『茶盌抄』の著者、加藤義一郎氏である」</ref> <ref>[[伊藤栄蔵]]・著、[[大本本部]]・監修『[[大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯]]』(昭和59年、講談社)p232「加藤はその紹介文の見出しを「耀盌顕現」とつけた。耀(かがや)くばかりの茶盌という意味である。以後、「耀盌」は聖師の後期楽焼の固有名詞となった」</ref>。加藤は昭和24年(1949年)『[[日本美術工芸]]』3月号で「耀盌顕現」という記事を書いたが、これが「耀盌」という言葉が世に顕れた初めである(「[[#昇天後の歴史]]」参照)。
王仁三郎本人は自分が作った楽焼茶碗を特別な呼び方はしていない。「楽焼」「茶碗」「楽茶碗」等の一般的な呼び方をしていたようである。ただし「わん」の字に「琓」を宛てて「茶琓」と表記している場合がある。王仁三郎は前期の作陶の時から「茶琓」という文字を使っている。王仁三郎本人は自分が作った楽焼茶碗を特別な呼び方はしていない。「楽焼」「茶碗」「楽茶碗」等の一般的な呼び方をしていたようである。ただし「わん」に「琓」(王+完)という漢字を宛てて「茶琓」と表記している場合がある。王仁三郎は前期の作陶の時から「茶琓」という文字を使っている。<ref>[[出口信一]]・監修『[[出口王仁三郎 耀琓]]』p255に前期作品である「岩戸」と「高尾」の箱書の写真が掲載されており、そこには「薄茶々琓」と記されている。</ref> <ref>『[[出口王仁三郎 耀琓]]』p251(中村六郎「王仁三郎の芸術」)「師のお始めになった大正十五年の時から茶琓という字を使われました。茶琓の琓は玉(ぎょく)の王であり完(まったし)であります」</ref> <ref>前期作陶中の歌日記に「茶琓」と表記している歌があるようだが未確認。</ref>
そのため「耀盌」ではなく「耀琓」と表記する人もいる。
前期(大正15年2月から昭和10年12月第二次大本事件までの約9年10ヶ月)の作品については約5千個という推測がある。だが第二次大本事件の際、当局の弾圧によりその多くは破却され、現存するものは少ない。<ref>『立替え立直し 人類愛善世界の提唱』(昭和46年、出口王仁三郎生誕百年記念会)p97、加藤義一郎「茶盌師王仁」:「約五千の楽焼茶盌を造っていたという。しかし当時の官憲の峻烈な弾圧は、如何なる一物もいやしくも彼の息のかかったものの遺存を許さなかったので、一旦眼に触れれば容赦なく破毀され、五千を数えたという楽焼も、より多くの書画の筆蹟同様殆ど亡失したのである。それ故偶然に残った極めて稀な例以外には、前期の作を窺うすべはない。」</ref>
後期(昭和19年年末から昭和20年3月までの約1年3ヶ月)の作品つまり耀盌の個数については「3000個」や「3000個以上」と紹介している場合が多い。後期(昭和19年年末から昭和21年3月までの約1年3ヶ月)の作品つまり耀盌の個数については「3000個」や「3000個以上」と紹介している場合が多い。
【例】
* 「焼きあげられたものはじつに三〇〇〇個にたっした」〔大本七十年史<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c653|3 新生への準備}}」(昭和42年、宗教法人大本)p684</ref>〕
ただしこれは単なる推測の数字に過ぎない。作品数についてはっきり分かっている数字は「36回」窯を焚いたということだけである(ただしこれは単なる推測の数字に過ぎない。数についてはっきり分かっている数字は「36回」窯を焚いたということだけである([[佐々木松楽]]の記録による<ref>出口信一・監修『[[出口王仁三郎 耀琓]]』p266-267、[[窪田英治]]の発言「先ほどご紹介した「花明山夜話」の座談会記事の中で、二代さま(出口すみ教主)が、松楽さんに、「何ぼ、窯したのかい」って問われますと、「'''三十六回'''でした」と答えておられる。そこで「自然にそうなったのか」聞かれたのに対して「後で帳面の記録を見たら偶然そうなっていました」とありますね」(文中の「花明山夜話」とは『木の花』昭和26年8月号に掲載された「花明山夜話(12)」のこと)</ref> <ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c653|3 新生への準備}}」:「作業は一九四六(昭和二一)年の三月に、'''三六回目'''の窯をもっておわりとなり、焼きあげられたものはじつに三〇〇〇個にたっした」</ref>)。その窯の大きさは内径が1尺8寸(約55cm)で、1回に茶碗が10個ほどしか入らない<ref>『[[出口王仁三郎 耀琓]]』p261、佐々木輝夫(佐々木松楽の子息)の発言「つまり尺八寸の窯、ということは内寸一尺八寸の窯なのです。だから茶盌が一回に十くらいしか入らない」</ref>。それを10回なり20回なり繰り返せば100~200個の茶碗が焼き上がる。その中から割れたりしたものを省いて良いものだけを使うと、最低で3千個は完成したのではないのかという推測だと思われる。また「三千世界一度に開く梅の花」など大本は三千という数字に因縁があるため、仮に3千個ということにしているのではないかと思われる。
3000個説以外に、3600個と推測したり<ref>【例】[[木庭次守]]・編『[[新月の光]]』「楽茶碗(茶碗天国)」(八幡版下巻p308):「昭和十九年に準備し、昭和二十年に窯から三十六回、一回百個、合計'''三千六百個'''を出された」</ref>、7200個と推測する人もいる。
== 昇天後の歴史 ==
王仁三郎が作った楽焼茶碗は、信徒にとっては信仰的な意味で価値が高いものだが、信徒以外でその芸術的価値を高く評価したのは、[[加藤義一郎]](工芸美術の評論家、日本美術工芸社主幹)が最初である。加藤は昭和24年(1949年)2月、岡山県伊部町の[[金重陶陽]](備前焼の陶匠、昭和31年に人間国宝に認定<ref><wp>金重陶陽</wp></ref>)を訪問し、王仁三郎作の楽焼茶碗「天国廿八」と「御遊(ぎょゆう)」を見て感激した。その感想を『日本美術工芸』誌の同年3月号に「耀盌顕現」と題して発表した。また8月号では「耀盌〝天国廿八─出口王仁師手造茶盌〟」と題する論評を発表した。)を訪問し、そこで王仁三郎作の楽焼茶碗「天国廿八」と「御遊(ぎょゆう)」を見て感激した。その感想を『日本美術工芸』誌の同年3月号に「耀盌顕現」と題して発表した。また8月号では「耀盌〝天国廿八─出口王仁師手造茶盌〟」と題する論評を発表した。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c7452|楽天社の発足宣言とその活動}}」</ref>
これにより大本でも、王仁三郎の楽焼茶碗を「耀盌」と呼ぶようになった。
== 関連書籍 ==
* 木の花別冊『[[出口王仁三郎の楽茶盌]]』:昭和30年(1955年)に発行されたこの冊子の題名では「耀盌」と呼んでいないので、この時点はまだ大本教団内において「耀盌」という呼び方がポピュラーではなかったと思われる。ただし本文内では「耀盌」と呼んでいる。
* 『[[耀盌 出口王仁三郎楽茶盌名品]]』1971年、講談社(B4変形版、214頁)
* 出口信一・監修、西村學・編『[[出口王仁三郎 耀琓]]』1996年、国書刊行会
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[[Category:用語]]
[[Category:芸術出口王仁三郎の芸術]]

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