差分

Jump to navigation Jump to search

耀盌

10 バイト追加, 2021年10月4日 (月) 00:07
斎入
少年時代に大本で奉仕した[[中村六郎]](備前焼の陶芸家<ref><wp>中村六郎</wp></ref>)は次のように記している。
{{inyou|前期楽茶琓の中に二十六個、すばらしいお茶琓があったそうで「サイニュー」のある茶琓で、師が大切にされていたそうであります。(大本弾圧)事件のため全部没収されたそうです。少年期の奉仕者の私には神様のことも、無論楽茶琓についてもわかる訳はありません。(略)「サイニュー」とは楽茶琓の窯変であり、窯の温度の変化により釉(ゆ)が煮えて出来るもので、小豆粒より小さいふくれが、茶琓の内面の茶溜に出来、その彩(いろ)どりが美しい、景色となっております。(略)「サイニュー」とは陶磁器用語には無く、師の茶琓にのみ出来た窯変のため、師がお考えになった造語ではないかと思われます。私なりに考えたのですが、彩入(彩乳)綵入(綵乳)といった字をあてて見ました。大本の文献にも無く、口伝で残っているだけであります。幻の茶琓となり残念でなりません。|『[[耀盌]]』p251、中村六郎「王仁三郎の芸術」『耀琓』p251、中村六郎「王仁三郎の芸術」}}
中村六郎は「大本の文献にも無く、口伝で残っているだけ」と書いているが、実際には大本文献に記され、「斎入」という文字が宛てられている。
[[出口禮子]]が[[谷前清子]]と[[山川日出子]]に取材した記録によると、大正15年2月6日に天恩郷に電気窯が入ったが、2月8日から12日にかけて斎入が生まれた。
{{inyou|二人の専門家が、「ヒヤー、間違うてこんなんできたか」と叫んだ。「良いもんができたのう」と王仁三郎。(略)二人の専門家が、「ヒヤー、間違うてこんなんできたか」と叫んだ。「良いもんができたのう」と王仁三郎。
 粟状の粒々が内も外も全部いっしょに盛り上がり、光によって変化しつつ、微妙に輝いている。十個は内外両面に素晴らしく出ており、十五個は内面だけ、五個は一部分だけでており、合わせて三十個である。
 谷前たちは月明館の茶の間で、王仁三郎とともに斎入の茶碗でお茶を頂いた。粒々はなめらかであり、口に含んだ感触も味じわいも深く、そのまろやかさに感動した。谷前には一回きりの体験であった。(略)昭和五年(一九三〇)二月二十一日、東京の上野美術館で王仁三郎の作品展があったとき、一つずつ別部屋に短冊・色紙・焼き物と分けて展示した。会場の第九室に斎入一号の「朝空」、二号「朝みどり」それに「海の華」など、緑色の深い輝きが実に美しかった。聖師も二代澄も梅田きみ子宅を宿として見に来る。会期は七日ぐらい続いた。 谷前たちは月明館の茶の間で、王仁三郎とともに斎入の茶碗でお茶を頂いた。粒々はなめらかであり、口に含んだ感触も味じわいも深く、そのまろやかさに感動した。谷前には一回きりの体験であった。(略) 昭和五年(一九三〇)二月二十一日、東京の上野美術館で王仁三郎の作品展があったとき、一つずつ別部屋に短冊・色紙・焼き物と分けて展示した。会場の第九室に斎入一号の「朝空」、二号「朝みどり」それに「海の華」など、緑色の深い輝きが実に美しかった。聖師も二代澄も梅田きみ子宅を宿として見に来る。会期は七日ぐらい続いた。|(出口和明が禮子の取材メモに基づいて記したもの)<ref>出口和明「落胤問題を実証する 八」</ref>}}
[[井上留五郎]]は『[[暁の烏]]』の中で次のように記している。「聖師様は本年二月より亀岡天恩郷において陶器楽焼(真如楽焼と称されている)をお始めになり、茶碗、盃などを沢山造られつつありますが、楽焼の代表者とされておる齋入と云う名工が、今より約五百年前初めて焼き出した一種の硬度結晶即ち齋入焼と云う天下の珍品が続々焼き出されて来たので、専門家を驚倒せしめ、今や斯界の問題となりております。そして聖師御作の茶碗または盃にて茶、水などをいただくと、病気が治ったり酒癖が直ったりする顕著なる実例が随所に頻発しております」。<ref>井上留五郎『暁の烏』(大正14年、天声社)「{{obc|B116500c084|(四)瑞月聖師の肉筆(書画)について}}」p128-129</ref>

案内メニュー