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笹目秀和

18 バイト追加, 2023年11月5日 (日) 16:36
主な著書
*昭和10年([[1935年]])12月、[[崑崙山]]に向け出発する。[[白頭山]]で呂霊棘(リョリンライ)神仙に会ったとき、12年後(昭和11年)に崑崙山の疏勒(シュロ)神仙を訪ねて今後のことを相談するように言われたからである。12月4日(第二次事件の4日前)、日本を発つ前に綾部で王仁三郎と会う。すると王仁三郎から、大本の御神体を崑崙山に鎮めるよう頼まれる。その夜、[[出口日出麿]]から、崑崙山での任務を聞かされる。
*翌日12月5日早朝、竹筒に入った大本の御神体を王仁三郎から預かり<ref>[[出口和明]]『[[出口なお・王仁三郎の予言・確言]]』254頁に「十二月四日の真夜中、王仁三郎がひそかに亀岡・[[天恩郷]]のオリオン星座にちなむ[[月宮殿]]に入り、ご神体を他の石と取りかえるのを側近[[内崎照代]]が目撃している。これは厳秘とされ、他へはもらされなかった。」と書いてある。『[[大本七十年史]] 下巻』376頁には「(聖師は)四日には日出麿夫妻と綾部にかえった」と書いてある。4日の夜、綾部にいたのか亀岡にいたのかはっきりしない。</ref>、日本を発つ。(王仁三郎は翌6日、松江に向け出発。8日、松江の[[島根別院]]にて検挙される<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』376頁</ref>)
*笹目は半年ほどかかり翌年6月中旬に、疏勒神仙が住む疏勒南山(青海省)に到着する。そこから更に20日間ほどかけて疏勒民族のいる集落に辿り着く。笹目は疏勒神仙(約500歳<ref name="nenrei" />)から「太陽の精を食(は)む法」を教えらた。崑崙山脈のココシリ山に大本の御神体を鎮め、7月4日に疏勒神仙と別れた。)から「太陽の精を食(は)む法」を教えられた。崑崙山脈のココシリ山に大本の御神体を鎮め、7月4日に疏勒神仙と別れた。
*戦争後、ソ連により抑留され、シベリアで11年4ヶ月の強制収容所の生活を送る。
*昭和32年([[1957年]])に帰国。東京都奥多摩の大岳山に[[多摩道院]]を開き、活動を行なう。
== 主な著書 ==
* 笹目恒雄『[[神仙の寵児]]』全4巻、霞ヶ関書房、昭和51年(1976年)…自動書記で書いたと言われている。』全4巻、霞ヶ関書房、昭和51年(1976年)…自伝小説。自動書記で書いたと言われている。
** 第一巻 煉獄篇 太陽を喰う男
** 第二巻 地恵篇 鶴仙を御し崑崙山頂に立つ

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