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用語メモ

1,539 バイト追加, 2024年2月13日 (火)
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* 霊界物語の読み方 「でありません」「であるんだ」→「でありませぬ」「であるのだ」に訂正。発音は「でありません」「であるんだ」と読む。{{rm09|21|0002|凡例}}
* 「神」と「司」について {{rm|7|41|枯木の花}} [[高照彦]]のセリフ「父のこの世を知召す時代は神代といつて誰も彼も皆神の名を賜つたが、世界の立替以後大洪水の後のこの世は神の名は無くなつて、誰も彼も人といふ名になり、彼方、此方の頭するものばかりが司となつて、加美といふ名をつけることになつた」
* 開化天皇の歌「若人のふるひ起つべきときは来ぬわかき日本の春はちかめり」 真如の光 昭和7年(1932年)11月15日号 p14 大本大祭概況の冒頭に掲げられている 昭和8年(1933年)2/15p24
* 霊界物語 神劇 真如の光 昭和7年(1932年)11月15日号 p17,20に記事あり
* 真如の光 昭和8年(1933年)2/15p128 急告 壬申日記が廃刊 お歌は明光誌上に掲載することになった
* 正宣伝使、大宣伝使、贈宣伝使、任宣伝使について 真如の光 昭和9年(1934年)10/17p24 祭式問答
* 大正15年(1926年)8月12日に王仁三郎は出雲大神宮に参拝している。『真如能光』大正15年(1926年)8月25日号p5歌日記 / 8/29も参拝している。同誌9月5日号p43 / 『真偽二道』「永遠の生命」p280、大正天皇が重病だと聞いた王仁三郎は早朝斎戒沐浴をし、出雲神社に参拝して祈願を凝らした。これは2週間に及んだ。
* [[大本神諭]] 「書体は独特だが二五年間活字で印刷したようにかわりなく、文字の特色さえのみこめばすべての筆先が読みこなせる。私たちの目には稚拙としかいいようもない文字も、書家の中には「|六朝体《りくちょうたい》に似た一種の風格を備え凡人の筆跡ではない」と賛嘆する者もある。また十万枚の筆先のうち、書き直しの個所が一つも見あたらぬのも特長だ。」第三次大本事件の真相p71
* 鎮魂帰神(幽斎)の実習法を変更 神霊界 大正9年(1920年)5月21日号 龍門号 p35の公告 5月15日付
* 王仁三郎が[[天津金木]]を使わなくなった理由──いつでもどこでも未来が見通せるようになったから [[島本邦彦]]『[[大地の叫び]]』p165「さらに覚也は、言霊学の研究者の一人として、わが国に伝わる神占の一種である天津金木─神算木─に深い関心をよせている旨も告げる。聖師はその問題に触れるや、わざわざ文箱より天津金木を取り出された。大本では、大正十年の第一次大本事件の頃までは、新年祭の時にこの神器を運用して、前途を神に伺い、神示を得ていた模様で、聖師自ら正月の綾部で斎戒沐浴、精進潔斎ののちに祭服に威儀を正して厳修したものだという。昭和にはいるとそれももう必要なくなったようだ。というのも、聖師がもう何処にあってもつねに未来が見通せるまでの境地に達しられたせいだという。」
* 十ヶ月暦(改暦案)について 神の国 昭和6年(1931年)10月号94頁聖都消息に記事あり
== 東北日記 ==

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