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比沼麻奈為神社

2,272 バイト追加, 2023年11月13日 (月) 16:53
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比沼麻奈為神社は[[久次岳]](ひさつぎだけ、標高541m)の東麓に鎮座している(麓の標高は50m前後)。
「太古豊受大神が御現身の折、五穀を作り蚕を飼って糸を取るなど、種々の農業技術をはじめられた尊い土地であるゆえ、久次比(竒霊(クシビ))の里と呼ばれていた」が、これが後に「久次(くし)の里」、そして「久次(ひさつぎ)」と呼ばれるようになった。「太古豊受大神が御現身の折、五穀を作り蚕を飼って糸を取るなど、種々の農業技術をはじめられた尊い土地であるゆえ、久次比(竒霊《クシビ》)の里と呼ばれていた」が、これが後に「久次《くし》の里」、そして「久次《ひさつぎ》」と呼ばれるようになった。<ref name="manaijinjya_pamphlet">比沼麻奈為神社の由緒書(パンフレット)</ref>
久次岳は「九州の天忍穂井(アメノオシホイ)の真名井の霊水を移された清水の湧き出る霊峰」<ref name="manaijinjya_pamphlet" />であるため、「真名井岳」とも呼ばれる。
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同社の中沢起一郎宮司によると、起一郎氏が四歳(数えか)のとき神学者でもあった父捨治(すてはる)氏が昇天されたので、神職の中継を祖母が出口聖師に依頼され、三弟幸吉さまが神職の資格を得ていたので、派遣されたという。京都・皇典講究所の連りがあっての依頼で、大正四年から昭和十三年、第二次大本事件のさわりで退任されるまで、二十四年間奉職された。同社の中沢起一郎宮司によると、起一郎氏が四歳(数えか)のとき神学者でもあった父 捨治《すてはる》氏が昇天されたので、神職の中継を祖母が出口聖師に依頼され、三弟幸吉さまが神職の資格を得ていたので、派遣されたという。京都・皇典講究所の連りがあっての依頼で、大正四年から昭和十三年、第二次大本事件のさわりで退任されるまで、二十四年間奉職された。
|大本教学研鑽誌『[[まつのよ]]』第4号(1999年発行)収録、[[三ツ野眞三郎]]著「花、天より高く(上)」p179
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丹波は元田場(たば)と書き、天照大御神が青人草の食いて活くべき稲種を作り玉うた所である。故に五穀を守ると云ふ豊受姫神は、丹波国丹波郡丹波村比沼の真名井に鎮座ましまし、雄略天皇の御代に至りて、伊勢国山田に御遷宮になつたのである。丹波は元 田場《たば》と書き、天照大御神が青人草の食いて活くべき稲種を作り玉うた所である。故に五穀を守ると云ふ豊受姫神は、丹波国丹波郡丹波村比沼の真名井に鎮座ましまし、雄略天皇の御代に至りて、伊勢国山田に御遷宮になつたのである。
|{{rm|37|1|富士山||a225|a230}}
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『[[大本教開祖御伝記]]』には──出口家の遠祖は丹波道主命([[開化天皇]]の孫)であり、四道将軍の一人として丹波に派遣され、何鹿に住み着いた。その子孫の綾津彦命が綾部に住み、豊受大神を祭った。それが後に久次に遷って比沼麻奈為神社となり、さらに伊勢に遷った。綾部の出口家が本家で、伊勢外宮の社家の出口家(渡会家)は分家である──と記されている。
 
{{inyou| 出口家の遠祖は丹波道主命《たんばみちぬしのみこと》に出づ。命は開化天皇の妃 田庭竹野姫《たにはたけのひめ》の子 彦由牟須美命《ひこゆむすみのみこと》の裔なり。道主命は崇神天皇の十年癸巳《きし》教化の将軍を四道に派遣して四民を教化せしめんと即ち命が祖先の出産地たる縁故を以て、天皇の特旨に依り丹波に派遣されたるが、命の教化の力能く功を奏し、終に丹波の何鹿の里に居を構へ威望四隣を圧したりしが、命の後裔なる綾津彦命《あやつひこのみこと》は綾部の郷 神戸《かんべ》の地を卜して永住し、豊受大神を奉祀し居たりしに後《のち》神勅に依りて丹波郡丹波村比沼真奈井が岳の麓なる現今中郡五箇村字久次の神境に移し祭り子孫相継ぎ奉仕せしが、雄略天皇の二十二年戊午《ぼご》天照大御神、天皇の御夢に現はれ給ひて、豊受大神を神が兄《せ》の伊勢の国山田が原に遷し祀るべく詔らせ給ひしより、天皇は神勅を奉じ、直ちに豊受大神を山田原に迎へ玉ひしが、其時神霊に奉侍して移り住みしは出口家の分家なり。今に山田に出口家の子孫現存す。又本家たりし出口氏は現今綾部の地に子孫繁栄して、同姓を名告る者殊に多し。斯る深き神縁によりて神道界の英傑開祖直霊女史の現出せしも亦不思議と謂ふベし。只惜むらくは中世祝融子の見舞ふ処となり、詳細なる記録系図等の煙滅せし事なり。|[[百済博士]](出口王仁三郎)著『[[大本教開祖御伝記]]』16頁}}
「[[故郷乃弐拾八年]]」には、本宮山から久次へ、そして伊勢へと遷座して行ったのではなく、<u>本宮山から直接伊勢へ遷座した</u>と記されている。(次の<u>下線部</u>)
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 雄略天皇の勅命によつて、豊受姫大神を丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井より神風の伊勢国山田の村に移し祭り賜ふ神幸の途次、曽我部郷の宮垣内の聖場を択んで神輿(しんよ)御駐輦(ごちゆうれん)あらせられたのである。(略) 雄略天皇の勅命によつて、豊受姫大神を丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井より神風の伊勢国山田の村に移し祭り賜ふ神幸の途次、曽我部郷の宮垣内の聖場を択んで神輿《しんよ》御駐輦《ごちゆうれん》あらせられたのである。(略)
 比沼真奈井神社の所在地は、太古は綾部の本宮山であつた。そして天真奈井川原(あめのまなゐがはら)と云ふのは、現今の和知川原(わちがはら)のことである。丹波国丹波郡丹波村は現今の綾部の聖地である。中世、丹後国中郡(なかごほり)久次村(ひさつぎむら)の真奈為ケ嶽の麓に神社の旧蹟を移遷したと云ふ伝説が古来行はれて居つたのである。然うすると、 比沼真奈井神社の所在地は、太古は綾部の本宮山であつた。そして天真奈井川原《あめのまなゐがはら》と云ふのは、現今の和知川原《わちがはら》のことである。丹波国丹波郡丹波村は現今の綾部の聖地である。中世、丹後国中郡《なかごほり》久次村《ひさつぎむら》の真奈為ケ嶽の麓に神社の旧蹟を移遷したと云ふ伝説が古来行はれて居つたのである。然うすると、<u>綾部の聖地から神風の伊勢の山田に遷座</u>の途中、曽我部の郷に一時御旅所(おたびしよ)として御駐輦になつたのである。太古同社の神職は、綾部の出口家が奉仕してをつたと曰ふ事であるが、後世に至つて、山田の外宮に奉仕せる社家に出口姓が伝はつて居る。彼の有名なる神道家出口延佳(のぶよし)は、外宮の社家中で、最も重要なる家格の人であつたのを見ても、証明する事が出来るのである。亦大神の御旅所となり、神明社を創建して奉仕せし、藤原家の末裔たる王仁が、太古の神縁ある綾部に来りて、出口家の相続者と成つたのも、不可思議な神縁であると思ふ。の途中、曽我部の郷に一時御旅所《おたびしよ》として御駐輦になつたのである。太古同社の神職は、綾部の出口家が奉仕してをつたと曰ふ事であるが、後世に至つて、山田の外宮に奉仕せる社家に出口姓が伝はつて居る。彼の有名なる神道家出口延佳《のぶよし》は、外宮の社家中で、最も重要なる家格の人であつたのを見ても、証明する事が出来るのである。亦大神の御旅所となり、神明社を創建して奉仕せし、藤原家の末裔たる王仁が、太古の神縁ある綾部に来りて、出口家の相続者と成つたのも、不可思議な神縁であると思ふ。
|『[[出口王仁三郎全集]] 第八巻』「{{obc|B121808c07|穴太の名義}}」及び「{{obc|B121808c08|綾部の聖地}}」(原題「故郷乃弐拾八年」、『[[神霊界]]』大正10年2月号掲載)
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霊界物語には比沼麻奈為神社そのものは登場しないが、神の降臨地である久次岳とその周辺の原野が「真名井山」「真名井ケ原」と呼ばれ、またそれら聖域の総称として「比沼真名井」と呼ばれている。→詳細は「[[比沼の真名井]]」を見よ
 
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* <wp>雄略天皇</wp>
* <wp>豊受大神宮</wp> - 伊勢神宮の外宮
 
== 脚注 ==
<references/>
{{デフォルトソート:ひぬまないしんしや}}
[[Category:神社]]
[[Category:秀逸な記事]]

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