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栗原白嶺

82 バイト追加, 2022年7月30日 (土) 21:55
主な著書
'''栗原白嶺'''(くりはらはくれい、1872?<ref name="seinen">正確な生年は不明。『実業之日本』大正8年(1919年)7月1日号に掲載された栗原七蔵著「天の命ずる人の道に向つて」によると、その時48歳で、22年前(より厳密には21年半前)に入社した時は27歳だった。入社は明治31年(1898年)なので、数え年で22年目が大正8年(1919年)になる。年齢も数え年だとすると、明治31年(1898年)で27歳なら、明治5年(1872年)生まれになる。ただし『大本年表』や『大本七十年史』には昭和11年(1936年)3月に獄中死した歳の年齢を65歳としており、その時の王仁三郎の年齢を64歳だとしているので、王仁三郎より1歳上の明治3年(1870年)生まれの可能性もある。また新聞記事では昭和10年12月の検挙の時点での栗原白嶺の年齢が60歳だったり62歳だったり、まちまちである。『[[神霊界]]』大正8年(1919年)4月15日号p13に栗原七蔵の「入信の経路 参綾の動機」が書いてあるが、そこでは47歳になっている。</ref>~1936年)は、大本の幹部。霊界物語の筆録者。本名は~1936年)は、大本の幹部。[[霊界物語の筆録者]]。実業之日本社の幹部を務めていたが大正8年に退社し大本の奉仕者となる。第二次大本事件で検挙され、昭和11年獄中で自殺を遂げた。本名は'''栗原七蔵'''。実業之日本社の幹部を務めていたが大正8年に退社し大本の奉仕者となる。第二次大本事件で検挙され、昭和11年獄中で自殺を遂げた。。「白嶺」は実業之日本社時代から使っていた号。
== 略歴 ==
* 大正8年(1919年)4月頃、綾部に修行に訪れている。<ref>『[[神霊界]]』大正8年(1919年)4月15日号p13の「入信の経路 参綾の動機」で、「修行者」の栗原七蔵が「私は数日前に初て参拝した者であるが」と記している。</ref>
* 大正8年(1919年)7月頃、実業之日本社を退社し、大本に入信して奉仕者となる。退社時には主査(経理部長兼製造部長)を務めていた<ref>『実業之日本社七十年史』p188</ref>。
* 昭和10年(1935年)12月8日、亀岡で出口日出麿らと共に検挙される。検挙時の役職は大本総務。昭和10年(1935年)12月8日、亀岡で[[出口日出麿]]らと共に検挙される。検挙時の役職は大本[[総務]]。
* 昭和11年(1936年)3月9日、中立売警察署独房にて縊死。
== 主な著書 ==
* 『聖徒か逆賊か?』:大正12年(1923年)3月、発行・東京堂、580頁。小説。『[[聖徒か逆賊か?]]』:大正12年(1923年)3月、発行・東京堂、580頁。小説。
* 『[[愛の根元は何?]]』:昭和4年(1929年)1月、発行・[[人類愛善新聞社]]。[[愛善叢書]]第一編。
* 『[[若返る神秘]]』:昭和5年(1930年)3月、発行・[[人類愛善新聞社]]。[[愛善叢書]]第二編。

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