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本宮山

874 バイト追加, 2023年11月26日 (日) 16:49
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[[ファイル:本宮山1.jpg|thumb|朝霧に包まれた本宮山。2017年2月撮影。]]
[[ファイル:本宮山と四尾山2022.jpg|thumb|本宮山と[[四尾山]]。2022年2月撮影。]]
[[ファイル:本宮山(天王平から)2022.jpg|thumb|[[天王平]]から望む本宮山。2022年2月撮影。]]
[[ファイル:本宮山(天王平から)2008.jpg|thumb|[[天王平]]から望む本宮山。2008年2月撮影。]]
[[ファイル:本宮山と蚕業試験場(絵葉書).jpg|thumb|戦前の本宮山。撮影時期不明。[[寺山]]から撮影したのだと思われる。]]
山頂に神殿を建てるため、大正9年4月16日、地鎮祭を執行。建設が進むが、翌10年2月12日、[[大本事件]]が勃発する。しかしその後も建設が続けられ、7月27日、神示により本宮山神殿に[[御三体の大神]]の遷座祭(仮鎮座祭)が執行される(斎主は三代[[直日]])。その後、当局から本宮山神殿の取り毀しを命じられ、10月20日から破壊工事が始められた。 →詳細は「[[本宮山神殿]]」を見よ
=== 三基の碑石 三基の石碑 ===大正12年(1923年)12月9日、本宮山に三基の碑石が引き上げられ、文字面を伏せて置かれた。昭和6年(1931年)9月8日、三基の碑石が建立されそれぞれ「昭和6年(1931年)9月8日、本宮山の山頂に三基の碑石が建立されそれぞれ「[[神声碑]]」「[[教碑]]」「」「歌碑([[鶴山歌碑]])」と命名された。このうち教碑([[歌碑教旨]]」と命名された。 →詳細は「が刻まれた石碑)だけはすでに大正12年(1923年)12月9日に本宮山に引き上げられ、文字面を伏せて置かれていた。 →詳細は「[[本宮山の三基の碑石本宮山の三基の石碑]]」を見よ
=== 長生殿 ===
=== 神声碑と教碑の再建 ===
昭和27年(1952年)2月4日、[[神声碑]]が再建され、後に[[教碑]]も再建された。が再建された。 →詳細は「[[本宮山の三基の石碑]]」を見よ === 二代教主歌碑建立 ===昭和28年(1953年)8月16日、二代教主・[[出口澄子]]の歌碑が建立された。 →「[[石碑#出口澄子の歌碑]]」
=== 禁足地になる ===
祥雲閣の前の和知川(由良川)に赤黒色の300キロほどの岩石があった。宇城(うしろ)宣伝使<ref>[[宇城信五郎]](宇城省向)か?</ref>はそれを霊石と感じ、大正14年(1925年)旧7月12日(新8月30日)誕生祭の日に川から引き上げて祥雲閣に運び入れた。後日、王仁三郎がその岩石を見て「竜頭石(りゅうとうせき)」と命名した。その後祥雲閣の門口に置かれていたが、王仁三郎の命令で本宮山に運ばれることになった。昭和2年(1927年)3月10日に竜頭石が祥雲閣から本宮山山頂に運ばれ、[[本宮山神殿]]跡に安置された。そして祥雲閣の横から本宮山山頂まで竜神の通り道を造ることになり、翌11日に地鎮祭が行われ工事が始まった。〔『[[真如の光]]』昭和2年(1927年)3月15日号{{obc|Z9041|「綾部だより」48-49頁}}による。「大本年表」にも記載あり。〕
 
== ギャラリー ==
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ファイル:本宮山1993.jpg|平成5年(1993年)6月撮影。[[丹波大橋]]から撮影。
ファイル:本宮山2014.jpg|平成26年(2014年)4月撮影。
ファイル:本宮山2016.jpg|平成28年(2016年)2月、山陰線の跨線橋から撮影。手前に見える屋根は[[みろく殿]]。
ファイル:本宮山(天王平から)2022.jpg|[[天王平]]から望む本宮山。令和4年(2022年)2月撮影。
ファイル:和知川から本宮山を望む(絵葉書).jpg|[[由良川]]から望んだ本宮山。撮影時期不明(戦前)。見づらいが左側に[[綾部大橋]]が見える。
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== 外部リンク ==

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