差分

Jump to navigation Jump to search

本宮山の三基の石碑

801 バイト追加, 2024年2月13日 (火)
略史
[[ファイル:本宮山の神声碑(絵葉書).jpg|thumb|本宮山山頂の三基の石碑。撮影時期不明(戦前)。]]
[[ファイル:綾部神声碑-神の国昭和6年10月号.jpg|thumb|中央の神声碑。撮影時期不明(戦前)。中央の神声碑。]][[ファイル:綾部鶴山歌碑鶴山歌碑.jpg|thumb|左側の鶴山歌碑。撮影時期不明(戦前)左側の鶴山歌碑。]][[ファイル:本宮山に再建された二基の石碑.jpg|thumb|昭和27年に再建された神声碑(右)と教碑(左)。]]
'''本宮山の三基の石碑'''(ほんぐうやまの さんきの せきひ)とは、昭和6年(1931年)9月8日に[[本宮山]]山頂に建立された「神声碑」「教碑」「歌碑(鶴山歌碑)」の三基の石碑のことである山頂に建立された「'''神声碑'''」「'''教碑'''」「歌碑('''鶴山歌碑''')」の三基の石碑のことである<ref>「本宮山の三基の石碑」という固有名詞なのではなく、オニペディアにおいて便宜的に名付けただけである。</ref>。現在は「神声碑」と「教碑」の二基だけ再建されている。
== 概要 ==
昭和9年(1934年)に発行された『[[大本写真大観]]』では次のように説明されている。
{{inyou|
 三ぜんせかい いちどにひら九 うめのはな もとのかみよに たてかえたてなをすぞよ すみせんざんにこしをかけ うしとらのこんじんまもるぞよ
歌碑<ref>『[[出口王仁三郎全集]] 第七巻』「{{obc|B121807c03|巻上}}」にフリガナ付きの歌が掲載されている。</ref>
 盛なりしみやゐのあとのつる山にやまほとときす昼よるを啼く
 よしやみは蒙古のあらのに朽るともやまと男の子の品は落さじ
|『[[大本写真大観]]』「神声碑」の説明の頁(みいづ舎復刻版では48頁){{ndldl|1688213}} }}
 
== 神声碑 ==
 
三せんせかいいちどにひら九
 
うめのはな もとのかみよに
 
たてかえ たてなをすぞよ
 
すみせんざんに こしをかけ
 
うしとらのこんじんまもるぞよ
 
  めいじ二十五ねんしようがついつか で九ちなお
 
== 教碑 ==
== 歌碑 ==
== 略史 ==
三基のうち向かって右側の'''教碑'''は、大正9年(1920年)6月に仙台の千代分所から献納された6.75トン(1800貫)の仙台石で造られている。王仁三郎によって大書された[[大本教旨]]「神者萬物普遍の霊にして人波天地経綸能大司宰也 神人合一志天茲に無限乃権力を発揮⦿ 王仁誌」が刻まれ、五六七殿の東側に伏せて置かれていた。大正12年(1923年)12月9日、本宮山の山頂に引き上げられたが、建てることはせず、文字面を伏せてそのまま置かれた。
中央の'''神声碑'''(しんせいひ)と左側の'''歌碑'''は5.625トン(1500貫)の仙台石に、昭和6年(1931年)8月8日から彫り始め、9月1日に彫り終わり、本宮山に引き上げられた。神声碑は上の方に「うぶこえ」と横書きされ、下に「三せんせかいいちどにひら九うめのはな もとのかみよにたてかえたてなをすぞよ すみせんざんにこしをかけうしとらのこんじんまもるぞよ めいじ二十五ねんしようがついつか で九ちなお」と刻まれ、歌碑には「盛なりしみやゐのあとのつる山にやまほととぎす昼よるを啼く」「よしやみは蒙古のあらのに朽るともやまと男の子の品は落さじ」という二首の和歌が刻まれた。歌碑の一番目の歌は入蒙の時にパインタラで詠んだ辞世の歌である。神声碑は「開碑(かいひ)」とも呼ばれた<ref>『[[神の国]]』昭和6年(1931年)10月号「聖都消息」94頁「中央は神声碑又は開碑と唱へ」』昭和6年(1931年)10月号「聖都消息」94頁「中央は神声碑又は開碑と唱へ」。ただしここには日付が「九月九日」と記されている。</ref>。
同年9月8日、三基の石碑は建立された。この時、王仁三郎は「これから十日後に大きな事件が起き、それが世界的に発展する」と発言した。その言葉通り、9月18日に[[満州事変]]が勃発し、戦争へと発展して行った。
[[第二次大本事件]]で三基の石碑は破壊された。
昭和27年(1952年)2月4日に、神声碑と教碑が再建された。昭和27年(1952年)2月4日(節分大祭)に、神声碑と教碑が再建された。
== 参考文献 ==
* [[九月八日の仕組]]
* [[9月8日]]
* 教碑:亀岡の[[教碑天恩郷]]:亀岡のにも「教碑」と呼ぶ石碑がある。→「[[天恩郷天恩郷の三基の歌碑]]にも「教碑」と呼ぶ石碑がある。
== 脚注 ==

案内メニュー