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月宮殿

1,123 バイト追加, 2021年10月24日 (日) 16:57
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月宮殿や[[長生殿]]の基礎が十字形になっている理由について王仁三郎は──神様には裏表がないので、どちらから見ても、裏も表も同じ形になっている、また[[大本神諭]]に「世界十字に踏み鳴らす」とあるし、キリスト教も卍も大本裏紋もみな十字であり、経緯、天地水火が揃った徽章を自然と持っている、この徽章通りに神殿を造らせていただき、天も地も清浄に真釣り合わそうということで十字型にした──と述べている。<ref>『[[真如の光]]』昭和10年8月17日・25日合併号p11</ref>
== 御神体 ===月宮殿の御神体として祭られた石は複数ある。「[[#造営]]」の項に「みろく石」「月照石」「日照石」「三光石」「暁の明星石」「宵の明星石」を記したが、それ以外にも、高熊山から現れた「黄金の玉」(月の隕石)と徳島県棚野から献納された「亀石」〔{{kgm|096|高熊山に現はれた霊石}}を参照〕や、「佐渡からあげられた赤玉石」〔新月の光1242「月の輪台の御神体」参照〕もある。この3個は前述の6個の中に含まれているのかどうかは不明。 === 崑崙山に鎮められた御神体 ===
昭和10年(1935年)12月4日、[[笹目秀和]]は大陸へ旅立つ直前に綾部に寄り王仁三郎と面会した。その時、王仁三郎に依頼され、月宮殿の御神体を預かり<ref>月宮殿の御神体(石)は多数あるが、預かった御神体は一つだけのようである。</ref>、それを中国の崑崙山脈([[崑崙山]])の某所に鎮めるという神業を行った。→ 「[[笹目秀和]]」の項を参照。
その出来事は本人の自伝『神仙の寵児』に記されているが、『大本七十年史』に次のように記されていることが傍証となる。
「一二月四日島根別院の大祭に出発する前日の真夜中、聖師がひそかに月宮殿にはいり、ご神体をとりだして、他の石ととりかえておいたことを側近の内崎照代がうかがいみたといわれているが、それは極秘にされて、他へはもらされなかった。」<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c6111|内部における予感}}」P316</ref>
 
[[櫻井喜美夫]]は、笹目によって崑崙山中に鎮められた石は、櫻井家が奉納した石だと述べている。<ref>[[櫻井喜美夫]]『[[出口王仁三郎の遺言]]』p138「この霊石は、昭和2年、「○○は霊石が出るので、しっかり信仰に励むよう」との聖師の言葉どおりに棲井家の近くの場所で発掘されたもので、それまでは大本(亀岡)の至聖所・月宮殿のご神体として祀られていました。」</ref>
== 略年表 ==
 
〔この項は特記ある場合を除き『大本年表』をもとに作成した〕
* 大正8年(1919年)12月6日、亀岡城趾の移転登記が完了。
* 同年8月24日、石材工事が終わる。
* 同年10月30日、月宮殿が完成。
* 同年11月12日、王仁三郎・澄子ら36名により御神体が綾部から徒歩にて亀岡へ奉送され、月宮殿御神体鎮祭(みろく石、月昇石、日昇石、三光石、暁星石、宵星石)。<ref name="goshintai" />同年11月12日、王仁三郎・澄子ら36名により御神体(みろく石、月昇石、日昇石、三光石、暁星石、宵星石)が綾部から徒歩にて亀岡へ奉送され、月宮殿御神体鎮祭が行われる。
* 同年11月16日、月宮殿竣成式。
* 同年11月27日、[[高熊山]]の宝座は月宮台に、黄金の玉は月宮殿に移されたので、毎大祭後の高熊山参拝の行事は今後廃止となる。
* 昭和8年(1933年)10月27日(旧9月9日)、[[神島]]参拝。大正5年(1916年)の[[神島開き]]から18年目。この夜、綾部から[[高天閣]]に遷座してあった[[みろくの大神]]の神霊を、月宮殿に遷座する。<ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c5422|神苑の造営と祭事}}」</ref>
* 昭和10年(1935年)7月28日、月宮殿前の観音通り完成式。
 
〔この項は特記ある場合を除き『大本年表』をもとに作成した〕
== その他 ==

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