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大石凝真素美

16 バイト追加, 2023年10月25日 (水) 08:55
外部リンク
* 明治8年(1875年)秋(44歳)太玉太観と東上し、山岡鉄太郎を訪ねる。9年4月21日、誓火(うけひ)の霊験を実験するが太玉太観は失敗し、片手が焦げて失ってしまう。大石凝は帰途に就き、近江国甲賀郡毛牧村にて謹慎する。
* 再び大和国を巡遊する(大和三山に関する話は「古事記神秘之正説」に詳しい)。[[吉野山]]で金鉱を探す。
* 大和からの帰路、近江国野州の親戚を訪れる。海路から蒲生郡八幡に行こうとして、沖の島の南面を過ぎる時、水面に大きな波紋を見る(水茎文字。八幡に上陸後、陸路を沖の島の方面へ向かうと、小さな丘があった(水茎の岡)。その丘に登って琵琶湖を見渡すと、大波紋を一望できた。それは大石凝が修養した言霊学の音韻文字であった。→詳細は「水茎文字」大和からの帰路、近江国野州の親戚を訪れる。海路から蒲生郡八幡に行こうとして、沖の島の南面を過ぎる時、水面に大きな波紋を見る(水茎文字。八幡に上陸後、陸路を沖の島の方面へ向かうと、小さな丘があった(水茎の岡)。その丘に登って琵琶湖を見渡すと、大波紋を一望できた。それは大石凝が修養した言霊学の音韻文字であった。→詳細は「[[水茎文字]]」* その後、五男神誕生の地である阿賀山と吾勝山を参拝する。→詳細は「その後、[[五男神]]誕生の地である阿賀山と吾勝山を参拝する。→詳細は「[[蒲生]]」
* 明治11~2年(1878~9年)、再び[[山本秀道]]宅に寄寓し、天津金木と日本言霊を研鑽する。「日本言霊は先生独特の大研鑽にして、其の基く所の原本等は多少これありしなるべけれど、七十五声の排列、其の神機の妙用等は慥に先人未発の大発見にして(略)古今独歩の感あり」「天津金木は(略)開闢以来嘗て未だ世に知られざるの極法なり」<ref>「伝」p15-16</ref>。
* 明治23年(1890年)7月(59歳)「弥勒出現成就経」を著す。明治23年(1890年)7月(59歳)「[[弥勒出現成就経]]」を著す。
* 明治23年(1890年)伊勢神宮で種々の改革が行われ、「お見比べ」の秘事(二十年毎の式年遷宮の際、旧殿と新殿の宝物を見比べて相違ないことを確認する儀式)が廃されて、新殿建築と同時に旧殿が壊されることになった。大石凝はそのことを驚き、神威を冒涜する罪は必ず至るとして、「神宮の正殿は炎上せむ」と予言する。(大石凝はこの時、伊勢国鈴鹿郡神辺村字木下に住んでいた)
* 明治31年(1898年)実際に伊勢神宮が炎上する。それ以前にも他の予言が成就したことがあり、世人を驚かすと同時に、大石凝が火をつけたのではないかと疑われた。
* 真仮名付法華経之序書:『神霊界』大正9年(1920年)11月11日号・12月1日号・10年2月1日の3回に分けて連載。
* 大石凝翁遺書:『神霊界』大正9年(1920年)2月21日号~5月11日号に8回に分けて連載。
 
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* {{Pid|921956|真訓古事記 上の巻}}:大正14年(1925年)9月1日発行、発行人・[[水野満年]]、356頁
* {{Pid|815923|日本三種神器之御伝記}}:明治28年(1895年)2月22日発行、浅井実雄・著、大石凝真素美・増訂、発行人・佐藤三郎
* 大石凝翁全集 →「大石凝真素美全集大石凝翁全集 →「[[大石凝真素美全集#外部リンク」を見よ外部リンク]]」を見よ == 脚注 ==<references/>
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