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大正日日新聞社

193 バイト追加, 2024年3月22日 (金)
略史
[[ファイル:大正日日新聞復刊第1号.jpg|thumb|大正日日新聞の復刊第1号。大本が買収してから約1ヶ月後の大正9年(1920年)9月25日に復刊した。]]
 
'''大正日日新聞社'''(たいしょうにちにちしんぶんしゃ)は、大正9年から11年にかけて[[大本]]が経営していた新聞社。もともとは日刊の一般紙を発行していた会社を大本が買収し、大本の主張を載せる新聞になった。
== 概要 ==
[[ファイル:大正日日新聞社の社屋.jpg|thumb|大正日日新聞社の社屋。]]
[[ファイル:大正日日新聞社のマーク.jpg|thumb|大正日日新聞社のマーク。]]
[[ファイル:大正日日新聞の題字.jpg|thumb|100px|大正日日新聞の題字。]]
 
* 表記ゆれ:大正日々新聞社
* 社屋は二階建ての洋館である。当時の住所は「大阪市北野角田町333番地ノ2」<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/2954276/1/10 官報 大正8年(1919年)10月20日 p.18 第2~3段] 株式会社大正日日新聞社の商業登記変更(支店設立)の公告に住所記載あり。</ref> <ref>「北野角田町」は大正13年(1924年)6月1日付で「北区角田町」に表示変更になる。『大本大阪本苑八十年誌』p49</ref>で、現在は阪急うめだ本店(大阪梅田ツインタワーズ・ノース)と阪急グランドビルが建っている一角に社屋があったと推測される(地図参照)。(道の向かい側の「HEP NAVIO」(旧・ナビオ阪急)が建っている三角地帯に社屋があったと推測する人もいる<ref>『[[大本大阪本苑八十年誌]]』p.49:「大正日日新聞社の当時の住居表示番号より推して現阪急ナビオビル一帯に洋風館の二階建の広大な社屋があったものとみられる」</ref>)
* 霊界物語にも何度か名前が出る。初出:{{rm09|2|0003|総説}}
* 社屋は二階建ての洋館である。現在「HEP NAVIO」(旧・ナビオ阪急)が建っている場所に社屋があったようである。当時の住所は「大阪市北野角田町333番地」。(住所と、実際に社屋が建っていた位置について疑義がある→「[[トーク:大正日日新聞社]]」)
== 略史 ==
当初は当局により報道管制が敷かれ大本事件に関する報道は禁じられていたが、5月10日に解禁になると全国の新聞は一斉に大本批判を繰り広げ、大本は陰謀団、妖教、国賊との汚名が広がる。これに対して大正日日新聞は当局の不法をなじり、事件を法難とし、大本擁護の論陣を張った。<ref name="B195401c2354" />
5月25日、王仁三郎は社長を退任し、[[上滝七五郎]]が就任した。しかし社会の誤解は拭えず、また当局の圧迫が増して経営はいよいよ困難となり、7月21日には[[高木鉄男]]が社長となる。8月3日には本社を梅田から淀川の河畔の天満筋四丁目に移転。11月24日には[[御田村竜吉]]が社長となる。そしてついに大正11年7月15日、大正日日新聞社は[[床次正広]](政治家の[[床次竹二郎]]の弟)に譲られ、大本との関係が絶たれた。の弟)<ref>床次正広は後に大本に入信した。出口京太郎『[[巨人出口王仁三郎]]』p220「床次の弟の正広は大正日日新聞社を王仁三郎から買い取った人だが、のちには大本ヘ入信している」</ref>に譲られ、大本との関係が絶たれた。<ref name="B195401c2354" /> <ref>『大本七十年史 下巻』「{{obc|B195402c5423|文書宣伝}}」には異なることが書いてある。大正日日新聞社を「聖師は一九二三(大正一二)年三月一日一切の権限を池沢原治郎に委任した。池沢は「大正日日新聞」の名義および設備・備品等の使用料を納めることなどの契約で米田誠夫に貸した。米田は大正一二年三月二八日より同紙を発行していたが契約を履行しなかったため、昭和七年二月に上野音次郎が委任をうけ、池沢への委任を解いた。上野は昭和七年四月一日、「大正日日新聞」の休刊の手続をとり、あらためて復刊する準備をすすめた。」(この池沢原治郎は大正10年8月に「大正日日新聞社編輯長」の肩書きで『飽まで天下と戦はむ』という本を大正日日新聞社から出している。[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/913641 国立国会図書館デジタルコレクション])</ref> <ref>床次正広は後に大本に入信した。出口京太郎『[[巨人出口王仁三郎]]』p220</ref> <ref>霊界物語{{rm|33|16|暗夜の歌}}(大正11年8月28日口述)の章末に「本日'''大正日々新聞社長 床次正広'''氏湯ケ島へ来訪即日帰阪す」とある。</ref>
しかし多額の債務が残った。社債49万9400円と借入金13万9619円である。大正10年(1921年)11月の会議の報告によると、本部の毎月の経常費は一ヶ月平均、支出が5310円、収入が2120円で、毎月3190円の赤字を出していた。そのような状況下での債務返済は困難であり、債権者から提訴され、聖地の土地・建物の差し押さえの危機にも遭ったが、信者の献金や出口家の財産の処分などで、巨額の債務問題は何とか落着した。<ref>『大本七十年史 上巻』「{{obc|B195401c4443|債務の整理}}」</ref>
自分は大正日日の負債数十万円の請求に、攻めつけられた際も、平然として第二の計画に取かかり天恩郷を築き上げた。|{{kgm|278|過去の失敗}} }}
== 脚注 関連資料 ==<references* 大正日日新聞(大本七十年史 上巻)** {{obc|B195401c2351|日刊新聞の経営}}** {{obc|B195401c2352|新聞の論調}}** {{obc|B195401c2353|新聞と信者の立場}}** {{obc|B195401c2354|抵抗と閉社}}* {{pid|2933374/1/>100|新聞史話 : 生態と興亡}}p.192「大正日日新聞」、内川芳美・著、昭和42年(1967年)、社会思想社
== 関連項目 ==
* <kb>藤村義朗</kb>、<wp>藤村義朗 (政治家)</wp>
* <kb>床次竹二郎</kb>、<wp>床次竹二郎</wp>
 
== 脚注 ==
<references/>
{{デフォルトソート:たいしようにちにちしんふんしや}}
[[Category:企業]]
[[Category:霊界物語の企業]]

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