差分

Jump to navigation Jump to search

吉岡発言

155 バイト追加, 2023年7月27日 (木) 03:12
編集の要約なし
[[ファイル:大阪朝日新聞-昭和20年12月30日-吉岡発言.jpg|thumb|朝日新聞(大阪本社発行)昭和20年(1945年)12月30日朝刊(第一版)に掲載された吉岡発言の記事。]]
'''吉岡発言'''(よしおかはつげん)とは、昭和20年(1945年)12月30日付の大阪の(よしおかはつげん)とは、昭和20年(1945年)12月30日(日曜)付の大阪の[[朝日新聞]]<ref>『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』は昭和15年(1940年)9月に題号を『朝日新聞』に統一している。</ref>に掲載された王仁三郎のインタビュー記事の中の、王仁三郎の発言のことである。
王仁三郎は同年12月10日から翌年1月6日まで鳥取県の[[吉岡温泉]]に清遊した<ref>1月6日に吉岡を出発、8日夕に帰綾、14日に帰亀。</ref>。滞在中、。滞在中、12月28日に[[朝日新聞]]の織田記者のインタビューを受けた(取材日は不明)。の鳥取方面通信員の織田記者から取材を受けた<ref>『大本教学 (大本信徒連合会の教学誌)』第4号(1998年12月発行)p.95</ref>。
吉岡発言はインタビューを編集した新聞記事のため、実際に王仁三郎が、記事内で使われている言葉、表現で発言したのかどうかは分からない。しかし王仁三郎が記事を批判したという話は聞かれないため、大筋において発言内容は正しいものと思われる。
しかし大和民族は絶対に亡びるものでない、日本敗戦の苦しみはこれからで、年毎に困難が加わり、寅年の昭和二十五年までは駄目だ。
いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。本当の世界平和は全世界の軍備が撤廃した時にはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。|『大阪朝日新聞』昭和20年12月30日『朝日新聞』(大阪本社発行)昭和20年12月30日朝刊(第一版)}}
== 脚注 ==

案内メニュー