差分

Jump to navigation Jump to search

出口王仁三郎

7,466 バイト追加, 2024年2月24日 (土)
別名・雅号
{{Kakikake}}
[[ファイル:出口王仁三郎0001.jpg||thumb|right|出口王仁三郎]]
'''出口王仁三郎'''(でぐち おにさぶろう、1871~1948)は、『おにさぶろう、1871~1948年)は、[[大本]]の[[二大教祖]]の一人。『[[霊界物語]]』の著者。大本教祖。世界改造業者。また霊能者、予言者、芸術家としても知られている。幼名は上田喜三郎(うえだ きさぶろう)。』著者。霊能者、予言者、歌人、芸術家としても知られている。幼名は上田喜三郎(うえだ きさぶろう)。大本を開教した[[出口直]]の娘婿となり、教団を組織し教典を作成し教義教理を整備した。大本における肩書きは「[[教主輔]]」。尊称「[[聖師]]」。
明治4年(1871年)7月12日生まれ。* [[出口王仁三郎の著述]]* [[出口王仁三郎の写真]]* [[出口王仁三郎の歌碑]]
昭和23年(1948年)1月19日(旧12月9日)昇天。 == 概要 基本情報 ==* 生年月日:明治4年(1871年)旧暦7月12日(新暦8月27日)生まれ。** 新暦(グレゴリオ暦)に改暦されたのは明治6年であり、5年12月3日を6年1月1日として改暦した。従って明治5年12月2日までの月日は旧暦での表記になる。* 没年月日:昭和23年(1948年)1月19日昇天。享年満76歳(数え78歳)。* 出生地:京都府南桑田郡穴太村。現在の京都府亀岡市曽我部町穴太。 →「[[穴太]](あなお)」** 生家跡は現在「[[瑞泉苑]](ずいせんえん)」と名づけられ大本の施設になっている。* 名前:出生名は「上田喜三郎(うえだ きさぶろう)」。後に「王仁三郎(おにさぶろう)」に改名し、出口家に養子に入って「出口王仁三郎」になった。 →「[[#「王仁三郎」の名の由来]]」** 「わにさぶろう」と呼ぶのは俗称であって正式な読み方ではない。* 家族:上田家の家業は農業。** 祖父:[[上田吉松]](きちまつ)。喜三郎が生まれて数ヶ月後に亡くなった。** 祖母:[[上田宇能]](うの)。言霊学者・[[中村孝道]]の妹。** 父:[[上田吉松]](きちまつ)。旧名:佐野梅吉(さの うめきち)。上田家の婿養子となった。*** 世祢と王仁三郎の主張だと、王仁三郎の実父は有栖川宮熾仁親王である。 →「[[有栖川宮熾仁親王]]」** 母:[[上田世祢]](よね)。** 兄弟姉妹:男5人・女3人の8人兄弟の長子。(ただし2人は成人前に夭折している) →「[[#兄弟姉妹]]」** 妻:[[出口澄子]](大本開祖・[[出口直]]の末子で第五女)** 子供:男2人・女6人の計8人。(ただし3人は成人前に夭折している) →「[[#子供]]」* 王仁三郎は明治31年(1898年)26歳の時、郷里にある[[高熊山]]で一週間の霊的修業を行い、自分の救世の使命を自覚し、霊能力を身に付けた。その後、宗教活動を開始する。 →「[[高熊山]]」「[[高熊山修業]]」* 王仁三郎は綾部で明治25年(1892年)に大本を開教していた[[出口直]]と出会い、明治32年(1899年)綾部に移住して、大本での活動を開始する。明治33年(1900年)1月、[[出口直]]の娘・[[澄子]]と結婚。* 大本は大正10年(1921年)2月と昭和10年(1935年)12月の二度に亘り、当局から弾圧を受ける。これを[[大本事件]]と呼ぶ。二度目の弾圧では6年8ヶ月間も獄中生活を強いられた。 →「[[第一次大本事件]]」「[[第二次大本事件]]」** 「出口王仁三郎は刑務所暮らしをしていた」等と言われる場合がある<ref>【例】出口京太郎『巨人出口王仁三郎』p437「王仁三郎は一生のうちに何度も投獄のうきめにあい、合わせて七年半も刑務所ぐらしをせねばならないのだ」</ref>が、それは大きな語弊がある。王仁三郎が囚人(既決囚)として刑務所で服役したことは一度もない。刑事被告人(未決囚)として拘置所に収監されただけである。拘置所が刑務所内に併設されていたため、便宜上、王仁三郎は刑務所に入れられた等と表現されるのだと思われる。* 王仁三郎は大正10年(1921年)10月から[[霊界物語]]の著述を開始する。自分は横になって口述し、側近に筆録させるという形で著述が進められた。全81巻83冊。 →「[[霊界物語]]」** 大本の教典は大本神諭と霊界物語の二つある。大本神諭は、出口直に艮の金神が懸かって書いた「筆先」を元にして王仁三郎が作ったものである。筆先は平仮名と漢数字だけで書いてあり、王仁三郎が筆先に漢字を当てはめて意味づけを行ったものが大本神諭である。* 王仁三郎は生涯で数十万首の和歌(短歌)を詠んだ。 →「[[和歌]]」* 王仁三郎は晩年(昭和20年)彩り鮮やかな楽焼茶碗を数千個作成した。「天国茶碗」とも呼ばれる。 →「[[耀盌]](ようわん)」
* 王仁三郎は職業を「世界改造業者」と称したことがある。<ref>[[出口和明]]『[[大地の母]] 第九巻「丹波の曙」』(みいづ舎版)p226「四月、直日は数え七つで綾部尋常小学校に入学した。家庭調査表の父の職業欄に、王仁三郎はこう書いている。
 ――世界改造業者。」</ref> <ref>[[出口京太郎]]・編著『[[出口王仁三郎の示した未来へ]]』p283「初期のころの話ですが、祖父は名刺をつくりまして、職業欄には「世界改造業者」「人間改造業者」という肩書きをかきました。これはいわば祖父のアイデンティティの表明と受け取れます。それが祖父の生涯を貫いた思想であり、言動であり、目標であったと思います。</ref>
 == 別名・雅号 ==王仁三郎は多数の別名や雅号を持つ。* 「出口王仁三郎は刑務所暮らしをしていた」等と言われる場合がある'''変性女子'''(へんじょうにょし):* '''瑞の身魂'''(みづのみたま)、'''瑞霊'''(ずいれい):* '''海潮'''(かいちょう):雅号。 →「[[海潮]]」* '''瑞月'''(ずいげつ):著作執筆で使っていた雅号の一つ。『[[神霊界]]』大正10年(1921年)2月号掲載「[[故郷乃二十八年]]」冒頭の「執筆の理由」<ref>【例】出口京太郎『巨人出口王仁三郎』p437「王仁三郎は一生のうちに何度も投獄のうきめにあい、合わせて七年半も刑務所ぐらしをせねばならないのだ」『出口王仁三郎著作集 第五巻』「{{obc|B195305c103|生いたちの記}}」。「執筆の理由」は全集第八巻「故郷の弐拾八年」では省略されている。</ref>が、それは大きな語弊がある。王仁三郎が囚人(既決囚)として刑務所で服役したことは一度もない。刑事被告人(未決囚)として拘置所に収監されただけである。拘置所が刑務所内に併設されていたため、便宜上、王仁三郎は刑務所に入れられた等と表現されるのだと思われる。によると、神様が王仁三郎の別名を「瑞月」と付けてくれたので、その月から「瑞月」という号で執筆することにした。その執筆日は大正9年(1920年)12月26日である。* '''尋仁'''(じんじん):雅号。 →「[[尋仁]]」* '''忠勝'''(ただかつ?):雅号。 →「[[忠勝]]」* '''聖師'''(せいし):尊称。 →「[[聖師]]」* '''喜三やん'''(きさやん):あだ名。* '''王仁さん'''(わにさん):あだ名。
== 家族 ==
 
明治4年(1871年)7月12日(当時はまだ改暦前。新暦だと8月27日になる)上田家に生まれる。幼名・喜三郎(きさぶろう)。
{| class=wikitable
|-
!続柄!!名前!!生誕日!!帰幽日!!享年<ref>原則として満年齢で記載。</ref>!!配偶者!!備考
|-
|長男||喜三郎(きさぶろう)(出口王仁三郎)||明治4年(1871年)7月12日||昭和23年(1948年)1月19日||76歳||澄子||
|三男||[[幸吉]](こうきち)||明治12年(1879年)3月15日(旧2月23日)<ref name="omnp" />|| || || ||比沼麻奈為神社の宮司を務めた。 →「[[比沼麻奈為神社#宮司]]」
|-
|長女||絹子(きぬこ)||年月日不明||年月日不明||4歳(数え年?)<ref>「故郷の弐拾八年」による。「長妹を絹子と云つた。これも四歳にして帰幽した」</ref>)||-|| ||
|-
|次女||[[雪子]](ゆきこ)||明治15年(1882年)3月19日(旧2月1日)<ref name="omnp" />||昭和27年(1952年)6月25日<ref name="omnp" />||70歳||[[西田元教]]|| ||
|-
|四男||政一(まさいち)([[小竹玖仁彦]])||明治18年(1885年)秋<ref>みいづ舎版『大地の母 第一巻』p.106「昨秋生まれた四男政一がいる」</ref>||昭和8年(1933年)11月22日<ref name="omnp" />||48歳|| ||明治28年(1895年)京都市の小竹宗太郎の養子となる<ref>みいづ舎版『大地の母 第二巻』p.106「十四歳の四男政一は一昨年夏、京都市に住む小竹宗太郎の養子に行っていない」</ref>。
|五男||久太郎(きゅうたろう)||明治21年(1888年)3月7日(旧1月25日)<ref name="omnp" />||不詳||十日目(または数十日後)に帰幽<ref>みいづ舎版『大地の母 第二巻』p.106「五男久太郎は二十一年に生まれて十日目に死んでいる」。「故郷の弐拾八年」では「久太郎は出生後数十日にして帰幽した」。</ref>||-||
|-
|三女||[[君子]](きみこ)(きみこ)(小西きみ)||明治25年(1892年)9月22日(旧8月2日)<ref name="omnp" />|| 昭和49年(1974年)11月10日<ref>『[[愛善苑]]』昭和49年(1974年)12月号17頁</ref>|| 82歳||明治41年(1908年)3月27日、[[小西増吉]](宇津の[[小西松元]]の息子)と結婚<ref name="omnp" />||
|}
=== 妻 ===
[[出口澄子]](大本開祖・[[出口直]]の末子で第五女)。明治33年(1900年)1月31日(旧暦1月1日)に結婚。明治16年(1883年)2月3日生まれの澄子は結婚時は満16歳。の末子で第五女。大本二代教主)。明治33年(1900年)1月31日(旧暦1月1日)に結婚。明治16年(1883年)2月3日生まれの澄子は結婚時は満16歳。
=== 子供 ===
王仁三郎と澄子との間に男子2人・女子6人の子ができたが、そのうち男子2人・女子1人は小さい時に帰幽した。成人した子は女子5人なので、尚江は四女、住之江は五女と表記する文献もある。孫は男子5人・女子10人の計15人いる。(表の享年は満年齢。子供=王仁三郎の孫は夭折者を除く)王仁三郎と澄子との間に男子2人・女子6人の子ができたが、そのうち男子2人・女子1人は小さい時に帰幽した。成人した子は女子5人なので、尚江は四女、住之江は五女と表記している文献もある。(表の享年は満年齢。子供=王仁三郎の孫は夭折者を除く)
{| class=wikitable
|六女(五女)||[[住之江]](すみのえ)||大正7年(1918年)4月3日(旧2月2日)||昭和55年(1980年)10月13日<ref>[[出口和明]]『[[第三次大本事件の真相]]』p.227</ref>(旧9月5日)||62歳||[[五十麿]](高橋義衛)||義江、恵子、[[雅子]]
|}
 
=== 孫・曽孫 ===
孫は男子5人・女子10人の計15人いる。(「[[#子供]]」の表を参照)
 
曽孫は推定45人いる。
 
世間的に有名な孫・曽孫には次の人物がいる。
* 孫・[[出口和明]](やすあき):昭和5年(1930年)8月生まれ。王仁三郎の三女・[[八重野]]の長男。小説家。大本草創期を描いた歴史小説『[[大地の母]]』の著者。 (<wp>出口和明</wp>)
* 曽孫・[[出口汪]](ひろし):昭和30年(1955年)8月生まれ。和明の長男。予備校講師(現代文)。論理的思考力養成システム「論理エンジン」開発者。教材開発・出版の企業「水王舎」を経営。 (<wp>出口汪</wp>)
* 曽孫・[[出口光]](ひかる):昭和30年(1955年)1月生まれ。王仁三郎の二女・[[梅野]]の長女・[[操]](みさお)の長男。心理学の博士。アパレル企業「タカキュー」元社長。「メキキの会」会長。[[一霊四魂]]を心理学に活用した「個性認識学」を開発。 (<wp>出口光</wp>)
* 曽孫・[[出口鯉太郎]](こいたろう):昭和35年(1960年)生まれ。王仁三郎の五女(四女)[[尚江]]の長男・[[尚雄]]の長男。備前焼の陶芸家。人間国宝・金重陶陽(かねしげ とうよう)の孫でもある(金重陶陽の三女・美和子が尚雄と結婚した)。
 
== 略史 ==
 →詳細は「[[大本#略史]]」を見よ
== 略年表 ==
(年齢は原則として満年齢)(明治5年に改暦)
{| class="wikitable"|明治4年7月12日(1871年8月27日)||上田喜三郎生誕|-|明治31年(1898年)3月1日(26歳)|| →詳細は「[[高熊山修業大本#略年表]]」を見よ |-* 明治4年7月12日(1871年8月27日):上田喜三郎生誕| 同年10月||綾部で* 明治31年(1898年)3月(26歳):[[出口直高熊山修業]]と会見|-|明治32年(1899年)7月(28歳)||大本に入る|-* 明治32年(1899年)7月(28歳):大本に入る|明治33年(1900年)1月(28歳)||* 明治33年(1900年)1月(28歳):[[出口澄子]](16歳)と結婚|-| 同年7月・8月||舞鶴沖の「[[冠島開き]]」「[[沓島開き]]」|-|明治34年(1901年)4月||[[元伊勢皇大神社]]で「[[元伊勢お水の御用]]」|-| 同年7月||[[出雲大社]]で「[[出雲火の御用]]」|-|明治43年(1910年)12月(39歳)||正式に「出口王仁三郎」に改名|-|大正5年(1916年)6月25日(44歳)||瀬戸内海・高砂沖の「[[神島開き]]」|-|大正6年(1917年)1月||機関誌『[[神霊界]]』誌上で『[[大本神諭]]』の発表を開始|-|大正7年(1918年)11月6日||* 大正7年(1918年)11月6日:[[出口直]]、昇天(81歳)|-|大正9年(1920年)9月(49歳)||[[大正日日新聞社]]を買収|-|大正10年(1921年)2月12日(49歳)||* 大正10年(1921年)2月12日(49歳):[[第一次大本事件]]で入獄|-| 同年6月17日||126日間の獄中生活を経て出獄|-| 同年10月18日||*  同年10月:[[霊界物語]]の著述を開始|-|大正11年~12年||[[バハイ教]]や[[道院]]、[[普天教]]など世界の諸宗教と提携|-の著述開始|大正13年(1924年)2月13日(53歳)||綾部を発ってモンゴルへ(~11月1日)→「* 大正13年(1924年)2月~7月(53歳):「[[入蒙]]」|-|大正14年(1925年)5月20日(54歳)||北京で[[世界宗教連合会]]設立|-| 同年6月9日||[[人類愛善会]]設立|-|昭和3年(1928年)3月3日(旧2月12日)||* 昭和3年(1928年)3月3日(旧2月12日):[[みろく大祭]](満56歳7ヶ月)|-|昭和7年(1932年)8月13日||[[大日本武道宣揚会]]設立(道主・[[植芝盛平]])|-|昭和8年(1933年)10月4日(旧8月15日)||霊界物語『[[天祥地瑞]]』編の著述開始|-|昭和9年(1934年)7月22日(63歳)||東京・九段の[[軍人会館]]で「* 昭和9年(1934年)7月22日(63歳):「[[昭和神聖会]]」設立|-|昭和10年(1935年)12月8日(64歳)||* 昭和10年(1935年)12月8日(64歳):[[第二次大本事件]]で入獄|-|昭和17年(1942年)8月7日(71歳)||6年8ヶ月ぶりに出獄|-* 昭和17年(1942年)8月7日(71歳):6年8ヶ月ぶりに出獄|昭和19年(1944年)12月29日(73歳)||* 昭和19年(1944年)12月末(73歳):[[耀盌]]を作り出す|-|昭和20年(1945年)9月8日(74歳)||大審院判決で有罪(後に恩赦)|-* 昭和20年(1945年)9月8日(74歳):大審院判決|昭和21年(1946年)2月7日(74歳)||大本を「* 昭和21年(1946年)2月7日(74歳):大本を「[[愛善苑]]」として新発足|-|昭和23年(1948年)1月19日(76歳)||昇天|}* 昭和23年(1948年)1月19日(76歳):昇天
== 少年青年時代 ==
<書きかけ>
 
* 祖父の[[吉松]]は喜三郎が生まれて半年後に病気で亡くなった。亡くなる直前に喜三郎の両親を枕頭に招いて次のように遺言した。「上田家は古来から七代目に必ず偉人が現れて天下に名を顕したものである。有名な画伯・[[円山応挙]](本名は上田主水)は自分の五代前の祖先である。今度の孫はちょうど七代目に当たるから、必ず何かの事で天下に名を顕すものになるであろう。先日も易者に孫の人相を観てもらったら、この子はあまり学問をさせると親の屋敷に居らぬようになる。しかし善悪に由らず、いずれにしても変わった子であるから十分気をつけて育てよ、とのことであった。私は死んでも霊魂は生きて、孫の生い先を守ってやる。この子は成長して名を顕しても我が家の力にはならないが、天下に美名を上げてくれれば祖先の名誉であり、天下のためであるから、大事に養育せよ」と言い終わると、眠るように帰幽した。<ref>『[[出口王仁三郎全集]] 第八巻』[[故郷の二十八年]]「{{obc|B121808c09|祖父の遺言}}」</ref>
== 高熊山修業以降 ==
<書きかけ>
=== 長沢雄楯との出会い ===
== 第一次大本事件以降 ==
<書きかけ>
王仁三郎は第一次大本事件以降は大衆の前に立つことがなく、再び大衆の前に現れたのは昭和9年8月12日、昭和神聖会京都地方本部発会式においてである。<ref>『[[大本七十年史]] 下巻』「{{obc|B195402c5304|地方組織の拡大}}」p177「第一次大本事件以後、かつて一度も公衆の前に立つことのなかった聖師が、統管として壇上にあがり、聖師みずからによる昭和神聖会結成の決意がひれきされた」</ref> <ref>[[大国美都雄]]『[[真偽二道]]』p183「出口聖師は、第一次大本事件以来、一度も大衆の前に立ったことがなかったが、今回は神聖会の統管として壇上に上がり、来会者に叫びかけた」</ref> (信者以外を対象にして講演等を行わなかったという意味)
== 第二次大本事件以降 ==
<書きかけ>
== 生活 ==
== 交友関係 ==
[[ファイル:Oni Toyama Uchida.jpg|thumb|左から王仁三郎、[[頭山満]]、[[内田良平]]。]]
[[ファイル:頭山満・野間清治・王仁三郎.jpg|thumb|左から[[頭山満]]、[[野間清治]]、王仁三郎(昭和10年撮影)]]
 
王仁三郎と親交があった主な著名人。
* [[頭山満]]:アジア主義者・国家主義者。玄洋社の創始者。
* [[内田良平]]:アジア主義者・国家主義者。黒竜会の創始者。[[昭和神聖会]]の副統管。
* [[野間清治]]:講談社の創業者。
* [[前田夕暮]]:歌人。
* [[若山喜志子]]:歌人。
   etc.
=== 恋人 ===
* [[斎藤蘭]]:初恋の相手。
* [[岡田惟平]]
== 主な著述 著述 ==
* 『[[霊界物語]]』全81巻83冊
* 「[[三鏡]]」全3巻
== フィクション作品に描かれた出口王仁三郎 ==
→「[[出口王仁三郎が登場するフィクション作品大本に関わるフィクション作品]]」
== 脚注 ギャラリー ==<references /> →「[[出口王仁三郎の写真]]」
== 関連項目 ==
== 外部リンク ==
* <kb>出口王仁三郎</kb>*<wp>出口王仁三郎</wp> == 脚注 ==<references />
{{デフォルトソート:てくちおにさふろう}}
[[Category:人物]]
[[Category:霊界物語の人物]][[Category:出口王仁三郎|*]][[Category:大本|*]]

案内メニュー