「上田正昭」の版間の差分

出典: 出口王仁三郎と霊界物語の大百科事典『オニペディア(Onipedia)』
Jump to navigation Jump to search
 
(同じ利用者による、間の2版が非表示)
1行目: 1行目:
'''上田正昭'''(うえだ まさあき、1927~2016年)は、歴史学者。[[小幡神社]]の第33代宮司<ref name="kokoro">[http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-276.htm 鎮守の森はよみがえる](平成14年(2002年)2月10日放送、NHK教育テレビ「こころの時代」、上田正昭のインタビューを文字起こししたもの):「私は京都の西陣の織り屋の息子なんですね。此処の上田家というのは、先程ご紹介頂きましたように、『延喜式』に載っている古いお宮なんです。私で、三十三代目になるんです。ところが、先代で、継承者が居なくなったものですから、ちょうど私の母と、こちらの先代と親しかったものですから、中学二年生の時に、こちらを継ぐことになりました。ほんとは外交官になりたかったんですけれども、早く神主の資格を取らなければならない、というので、國學院の方へ行きまして、國學院大學を出て、京都大学に進んだわけです。ですから、宮司になったのは、ちょうど二十歳の時で、昭和二十二年(一九四七年)ですから、五十五年ということになりますね」</ref>。京都大学名誉教授。専門は日本古代史。
+
'''上田正昭'''(うえだ まさあき、1927~2016年)は、歴史学者。[[小幡神社]]の第33代宮司。京都大学名誉教授。専門は日本古代史。
  
子供時代には[[王仁三郎]]と多少親交があり、後には大本関係の講演や執筆も依頼されて行っていた。
+
== 略年表 ==
 +
* 昭和2年(1927年)4月29日、兵庫県城崎郡城崎町(現・豊岡市城崎町)湯島の呉服商・佐々木政次郎、きみ夫婦の次男として生まれる。西陣の著名な織元の佐々木清七(1844~1908年)の曾孫にあたる。
 +
* 父・政次郎は西陣の織屋を継いだが大正14年(1925年)5月の北但大震災(北但馬地震)の後、その復興の機運や地元の友人の要請もあって城崎に呉服店を出した。開店から一年ほど経った時に上田正昭が生まれた。<ref>『アジアの~』1頁</ref>
 +
* 小学5年生の時に家庭の事情で西陣の小学校に転校するが、6年生の時に城崎に戻る。
 +
* 昭和15年(1940年)4月、兵庫県立豊岡中学校(現・県立豊岡高校)に入学。その頃、父が病死し、母たちは店じまいをして西陣へ帰った。<ref>『アジアの~』4頁</ref>
 +
* 昭和16年(1941年)4月、京都府立第二中学校(現・府立鳥羽高校)に転入学。
 +
* 昭和17年(1942年)3月、[[小幡神社]]の社家・上田家の第33代を継ぐ。先代([[上田正定]])が逝去して後継者がなく、父母と親しい間柄だった上田多美・美知(多美は正定の長女<ref>多美は『[[大地の母]] 第2巻』68頁に登場する。「羽織袴に八字髭、すいっと長身の上田正定。傍に妻のぶが赤子(長男の正躬)を背に長女多美を連れている。五つの多美はおけしぼん(おかっぱ)のかわいい髪を肩まで垂らし、綿入れの袖を胸で合わせて、乳牛をのぞきこむ」。美知は次女?</ref>)の懇望による。<ref name="ajiano_p15">『アジアの~』15頁</ref>
 +
* 早く神職の資格を取るため、第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部および岡山大学医学部)への進学はあきらめて、京都国学院(昭和17年4月)、さらに国学院大学専門部(昭和19年4月)へと進む。国学院大学で教鞭をとっていた[[折口信夫]]と出会い、折口の影響で歴史を学ぶため京都帝大へ進む。<ref name="ajiano_p15" />
 +
* 昭和22年(1947年)4月1日、京都帝国大学文学部史学科に入学。
 +
* 昭和22年(1947年)5月1日、[[小幡神社]]宮司および[[神明社]]宮司に任命された。
 +
* 平成28年(2016年)3月13日、亀岡の自宅で<ref>『現代の論理』</ref>帰幽。88歳。
  
* 西陣の織屋の次男。著名な織元の佐々木清七(1844~1908年)の曾孫。<ref name="nihontoiukuni_p12">梅原猛・上田正昭『「日本」という国』2001年、大和書房、p12:「実は、私はもともとは京都西陣の織屋の息子なんです。明治維新のときに西陣は非常に衰微しますが、私の曾祖父、佐々木清七は、初代の織物組合長で、明治二年に民間でジャカードなどを入れた。明治五年にフランスへ行った佐倉常七さんは、後に私のところの番頭になっています。そういう織屋の次男に生まれました。亀岡の上田という延喜式内社の先代が亡くなり、跡継ぎが必要になったので、私は何もわからないまま、母にとにかく上田家を継いでくれといわれました。私の母と上田家の先代とが親しい友人だったのです。(略)そんなことで上田家を継いだのですが、早く神主の資格を取らなけれぽいけない。そこで国学院へ行くことになるんですよ。 国学院で折口信夫先生に出会う。実は折口先生から「君の学者としての将来を保証するから」と言われましてね。 藤井春洋さんという方が先生の跡継ぎとして折口家に入られたのですが、硫黄島で戦死されたので、白羽の矢が私に立ったんですね。(略)それで、えらいことになったと京大を受験して京都大学に入る」</ref>
+
== 王仁三郎との関係 ==
* 昭和2年(1927年)4月29日、兵庫県城崎郡城崎町(現・豊岡市)で生まれる。小学生の時、京都の西陣に引っ越した<ref name="gendainoronri">『現代の論理』第8号 西村秀樹「皇国史観、差別に抗い、天皇や司馬遼太郎に大きな影響与えた~上田正昭」[http://gendainoriron.jp/vol.08/serial/se01.php Web上の記事]:「どうもわたしが上田最後のインタビューアらしい」「上田は、1927年、城崎温泉で名高い兵庫県城崎町(現・豊岡市)で誕生した。小学校のとき京都の西陣に引っ越し、中学生のとき縁があって京都府亀岡市の小幡神社に迎えられた。小幡神社には跡取りがなかったためだ。(略)神職の資格をとるため國學院大學に進学する」「上田はそこで歌人としても名高い折口信夫や金田一京助に出会う。ご承知のように、折口は日本民俗学の祖・柳田国男の弟子。上田は折口学とも言われる折口の学問にふれたあと、敗戦直後の1947年、京都大学文学部に籍を移し、歴史研究を本格的にスタートする」</ref>
+
* [[小幡神社]]の先代宮司・[[上田正定]]は、[[上田喜三郎]]・[[村上信太郎]]と共に[[精乳館]]を創業した三人のうちの一人である。
* 正昭の母親は、[[小幡神社]]の宮司([[上田正定]]?)と親しい友人だった。宮司が亡くなり、跡継ぎがいなかったため、正昭は母親に言われて上田家の養子になった。神主の資格を取るために国学院大学に入り(昭和19年)、そこで折口信夫と出会う。折口の影響で歴史を学ぶため京都大学に入った(昭和22年)。<ref name="nihontoiukuni_p12" />
+
* 青年時代に[[王仁三郎]]と多少親交があり、後には大本関係の講演や執筆も依頼されて行っていた。
* 養子に入ったのは中学2年生の時で、宮司になったのは20歳の時(昭和22年)。<ref name="kokoro" />
+
* [[王仁三郎]]との会話を回顧して次のように語っている。「僕がまだ中学の二年生頃に穴太の小幡神社(亀岡市)へ行ったんです」「聖師は勉強したらアカンというのです。〝勉強なんかしたらアカン、お前は勉強したらな、穴太を飛び出して行く〟というんですわ。ではどうするかと聞くとね、〝村の役場でも勤めたらええわ〟と、こういう無責任なことをいう。僕は抵抗しとったんですけどね。〝僕は学問やる〟言ったら、〝そりゃしゃあないな〟というようなことだったけどもね。しかし、王仁三郎が言いたかったことがわかるような気もします」<ref>『[[出口栄二選集]] 第三巻』p143([[出口栄二]]、上田正昭、[[梅原猛]]の3人による鼎談)</ref>
 +
* 『[[大本七十年史]]』の編纂に編集参与として参画した。それは「私の生涯にとって忘れることのできない仕事」だったと回顧している。<ref>『アジアのなかの日本再発見』122頁</ref>
 +
* 『大本七十年史』以外にも大本の出版物に関わっている。【例】『[[「[[みろくの世]]」 (天声社)|]]』監修
 
* [[出口栄二]]とは昭和24年(1949年)頃から、学友として親交があった。<ref>『[[出口栄二選集]]』月報1 上田正昭「華甲再生」p4「著者とは一九四九(昭和二十四)年のころから、学友としての親交をつづけてきた」</ref>
 
* [[出口栄二]]とは昭和24年(1949年)頃から、学友として親交があった。<ref>『[[出口栄二選集]]』月報1 上田正昭「華甲再生」p4「著者とは一九四九(昭和二十四)年のころから、学友としての親交をつづけてきた」</ref>
* 上田正昭は[[王仁三郎]]との会話を回顧して次のように語っている。「僕がまだ中学の二年生頃に穴太の小幡神社(亀岡市)へ行ったんです」「聖師は勉強したらアカンというのです。〝勉強なんかしたらアカン、お前は勉強したらな、穴太を飛び出して行く〟というんですわ。ではどうするかと聞くとね、〝村の役場でも勤めたらええわ〟と、こういう無責任なことをいう。僕は抵抗しとったんですけどね。〝僕は学問やる〟言ったら、〝そりゃしゃあないな〟というようなことだったけどもね。しかし、王仁三郎が言いたかったことがわかるような気もします」<ref>『[[出口栄二選集]] 第三巻』p143(出口栄二、上田正昭、梅原猛の3人による鼎談)</ref>
 
* 平成28年(2016年)3月13日、亀岡の自宅で<ref name="gendainoronri" />死去。88歳。
 
  
== 脚注 ==
+
== 主な参考文献 ==
<references/>
+
* 上田正昭『アジアのなかの日本再発見』(上田正昭の自伝)平成23年(2011年)6月、ミネルヴァ書房
 +
* [[梅原猛]]・上田正昭『「日本」という国』2001年、大和書房、p12
 +
* [http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-276.htm 鎮守の森はよみがえる](平成14年(2002年)2月10日放送、NHK教育テレビ「こころの時代」、上田正昭のインタビューを文字起こししたもの)
 +
* 『現代の論理』第8号 西村秀樹「皇国史観、差別に抗い、天皇や司馬遼太郎に大きな影響与えた~上田正昭」[http://gendainoriron.jp/vol.08/serial/se01.php Web上の記事]
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
20行目: 33行目:
 
* <kbwp>上田正昭</kbwp>
 
* <kbwp>上田正昭</kbwp>
 
* <kb>佐々木清七</kb>:上田正昭の曾祖父。
 
* <kb>佐々木清七</kb>:上田正昭の曾祖父。
 +
 +
== 脚注 ==
 +
<references/>
  
 
{{デフォルトソート:うえたまさあき}}
 
{{デフォルトソート:うえたまさあき}}
 
[[Category:人物]]
 
[[Category:人物]]

2023年12月20日 (水) 17:13時点における最新版

上田正昭(うえだ まさあき、1927~2016年)は、歴史学者。小幡神社の第33代宮司。京都大学名誉教授。専門は日本古代史。

略年表

  • 昭和2年(1927年)4月29日、兵庫県城崎郡城崎町(現・豊岡市城崎町)湯島の呉服商・佐々木政次郎、きみ夫婦の次男として生まれる。西陣の著名な織元の佐々木清七(1844~1908年)の曾孫にあたる。
  • 父・政次郎は西陣の織屋を継いだが大正14年(1925年)5月の北但大震災(北但馬地震)の後、その復興の機運や地元の友人の要請もあって城崎に呉服店を出した。開店から一年ほど経った時に上田正昭が生まれた。[1]
  • 小学5年生の時に家庭の事情で西陣の小学校に転校するが、6年生の時に城崎に戻る。
  • 昭和15年(1940年)4月、兵庫県立豊岡中学校(現・県立豊岡高校)に入学。その頃、父が病死し、母たちは店じまいをして西陣へ帰った。[2]
  • 昭和16年(1941年)4月、京都府立第二中学校(現・府立鳥羽高校)に転入学。
  • 昭和17年(1942年)3月、小幡神社の社家・上田家の第33代を継ぐ。先代(上田正定)が逝去して後継者がなく、父母と親しい間柄だった上田多美・美知(多美は正定の長女[3])の懇望による。[4]
  • 早く神職の資格を取るため、第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部および岡山大学医学部)への進学はあきらめて、京都国学院(昭和17年4月)、さらに国学院大学専門部(昭和19年4月)へと進む。国学院大学で教鞭をとっていた折口信夫と出会い、折口の影響で歴史を学ぶため京都帝大へ進む。[4]
  • 昭和22年(1947年)4月1日、京都帝国大学文学部史学科に入学。
  • 昭和22年(1947年)5月1日、小幡神社宮司および神明社宮司に任命された。
  • 平成28年(2016年)3月13日、亀岡の自宅で[5]帰幽。88歳。

王仁三郎との関係

  • 小幡神社の先代宮司・上田正定は、上田喜三郎村上信太郎と共に精乳館を創業した三人のうちの一人である。
  • 青年時代に王仁三郎と多少親交があり、後には大本関係の講演や執筆も依頼されて行っていた。
  • 王仁三郎との会話を回顧して次のように語っている。「僕がまだ中学の二年生頃に穴太の小幡神社(亀岡市)へ行ったんです」「聖師は勉強したらアカンというのです。〝勉強なんかしたらアカン、お前は勉強したらな、穴太を飛び出して行く〟というんですわ。ではどうするかと聞くとね、〝村の役場でも勤めたらええわ〟と、こういう無責任なことをいう。僕は抵抗しとったんですけどね。〝僕は学問やる〟言ったら、〝そりゃしゃあないな〟というようなことだったけどもね。しかし、王仁三郎が言いたかったことがわかるような気もします」[6]
  • 大本七十年史』の編纂に編集参与として参画した。それは「私の生涯にとって忘れることのできない仕事」だったと回顧している。[7]
  • 『大本七十年史』以外にも大本の出版物に関わっている。【例】『[[「みろくの世」 (天声社)|]]』監修
  • 出口栄二とは昭和24年(1949年)頃から、学友として親交があった。[8]

主な参考文献

  • 上田正昭『アジアのなかの日本再発見』(上田正昭の自伝)平成23年(2011年)6月、ミネルヴァ書房
  • 梅原猛・上田正昭『「日本」という国』2001年、大和書房、p12
  • 鎮守の森はよみがえる(平成14年(2002年)2月10日放送、NHK教育テレビ「こころの時代」、上田正昭のインタビューを文字起こししたもの)
  • 『現代の論理』第8号 西村秀樹「皇国史観、差別に抗い、天皇や司馬遼太郎に大きな影響与えた~上田正昭」Web上の記事

関連項目

外部リンク

脚注

  1. 『アジアの~』1頁
  2. 『アジアの~』4頁
  3. 多美は『大地の母 第2巻』68頁に登場する。「羽織袴に八字髭、すいっと長身の上田正定。傍に妻のぶが赤子(長男の正躬)を背に長女多美を連れている。五つの多美はおけしぼん(おかっぱ)のかわいい髪を肩まで垂らし、綿入れの袖を胸で合わせて、乳牛をのぞきこむ」。美知は次女?
  4. 4.0 4.1 『アジアの~』15頁
  5. 『現代の論理』
  6. 出口栄二選集 第三巻』p143(出口栄二、上田正昭、梅原猛の3人による鼎談)
  7. 『アジアのなかの日本再発見』122頁
  8. 出口栄二選集』月報1 上田正昭「華甲再生」p4「著者とは一九四九(昭和二十四)年のころから、学友としての親交をつづけてきた」