21,339
回編集
差分
Jump to navigation
Jump to search
王仁三郎は出雲神社にたびたび参拝しており、宮司と懇意にしていたようである。しかし、の御用・水の御用を行った出雲大社や元伊勢皇大神社、また熊野新宮神社、香良洲神社などのように宗教的な意味づけは、出雲神社に対してはなされていない。御神体山に国常立尊が鎮まっていることは知っていたようだが(→「王仁三郎は出雲神社にたびたび参拝しており、宮司と懇意にしていたようである。しかし、火の御用・水の御用を行った[[出雲大社]]や[[元伊勢皇大神社]]、また[[熊野新宮神社]]、[[香良洲神社]]などのように宗教的な意味づけは、出雲神社に対してはなされていない。御神体山に[[国常立尊]]が鎮まっていることは知っていたようだが(→「[[#国常立尊]]」)、「元出雲」ということについては何も言及がない。
出雲大神宮
,→王仁三郎との関わり
== 王仁三郎との関わり ==
王仁三郎は明治35年(1902年)5月頃、大阪宣教に先立ち、出雲神社に参拝している。そのことが懐古歌集『[[百千鳥]]』で歌われており、藤木宮司と話し込んだことが歌われている。<ref>懐古歌集『[[百千鳥]]』(昭和52年、天声社)79頁〈大阪に愛善の道ひらかむと出雲神社にまづ詣でけり〉。88~93頁に出雲神社に参拝し藤木宮司と話したことが歌われている。その後、愛宕神社(出雲神社のすぐ近くにある元愛宕ではなく、愛宕山上の総本宮)に参拝している。この大阪宣教は神示によって中止になり、高熊山に入って第三回目の修業を行った。一ヶ月ほど後の6月頃に大阪宣教に行った。</ref>