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八雲山の伝承を世に顕彰したのは大本の出口王仁三郎聖師で、昭和八年(十月十日)次の和歌三首を刻んだ歌碑が建立された。(後、誤まれる官憲の弾圧を受け破壊されている。) 八雲山の伝承を世に顕彰したのは大本の出口王仁三郎聖師で、昭和八年(十月十日<ref name="s81110" />)次の和歌三首を刻んだ歌碑が建立された。(後、誤まれる官憲の弾圧を受け破壊されている。)<br>
八雲山
,→出口王仁三郎との関わり
の短詩が詠われ三十一音の和歌を発祥した史跡である。以来、和歌は日本の国風《くにぶり》となり、歴代天皇はもとより国民も敷島の道を尊み学び詠い、また日本文化を貫く根本精神となった。<br>
伝承神話によれば、素盞嗚尊は八岐大蛇を退治されるや、この地に来り給い「我が心すがすがし」と須賀の宮居を築かれ、祝賀に妃櫛稲田姫が弓を盥《たらい》に結び梅枝で弦を打ち鳴らされた音に感動して〝八雲立つ〟の歌を詠われた。弓楽は弓太鼓と称し我が国絃楽の濫觴《はじめ》として古式〝歌祭り〟に伝わった。<br>
千早ぶる神の聖跡《みあと》をしたいつつ八雲の山に吾が来つるかも<br>
八雲立つ出雲の歌の生れたる須賀の皇居《みやい》の八重垣のあと<br>