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出口王仁三郎

1,206 バイト追加, 2021年11月28日 (日) 05:24
「王仁三郎」の名の由来
=== 「王仁三郎」の名の由来 ===
まだ亀岡で幽斎研究を続けていた頃、ひそかに出修に行けという神示が降りた。そこで友人の斎藤だけに話して、母には心配しないように書き置きを残して出かけた。このとき書き置きに、ふと「鬼三郎(きさぶろう)」と署名した。後に綾部に来てからナオの筆先で「おにさぶろう」と命名されので、「王仁三郎」と名乗るようになった。上田喜三郎がまだ亀岡で幽斎研究を続けていた頃、ひそかに出修に行けという神示が降りた。そこで友人の斎藤だけに話して、母には心配しないように書き置きを残して出かけた。このとき書き置きに、ふと「鬼三郎(きさぶろう)」と署名した。<ref>『大本七十年史 上』P156『[[大本七十年史]] 上巻』「{{obc|B195401c1432|布教活動と警察の干渉|P156-157}}」</ref>
戸籍上、正式に「出口王仁三郎」になったのは明治43年(1910年)の暮れである。明治36年(1903年)旧4月27日(新5月23日)の筆先で「会長(喜三郎のこと)は神界では出口おに三郎と名を致すから」云々と出た(筆先なので本来は全文平仮名)。喜三郎は「おに」に「王仁」の文字を宛て、以後「王仁三郎」と名乗るようになった。<ref>出口和明『[[大地の母]] 第8巻』「岩戸開き」</ref> <ref>この筆先は大本神諭にはなっていない。『[[大本史料集成]]Ⅰ』p211(5月23日の筆先)、『大本神諭([[五巻本]])第三集』p76(旧4月27日の筆先)に掲載されている。両者の文面が多少異なるが、史料集成のものが原文に近いと思われる。大地の母(第8巻「岩戸開き」)に引用されているものは五巻本のもの。</ref> 明治37年(1904年)9月20日、町役場に改名届を出し、戸籍上「上田王仁三郎」になる。(王仁三郎は上田家の戸主なので改姓は出来なかった。弟の[[上田幸吉|幸吉]]が明治43年11月1日に上田家の戸主になったので、その後「出口」に改姓した) 明治43年(1910年)12月29日、出口家への養子の手続きが終わり、戸籍上「出口王仁三郎」になる。 明治45年(1912年)2月21日、出口家の戸主となり家督相続する。
== 第一次大本事件以降 ==

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