吉岡発言
吉岡発言(よしおかはつげん)とは、昭和20年(1945年)12月30日(日曜)付の大阪の朝日新聞[1]に掲載された王仁三郎のインタビュー記事の中の、王仁三郎の発言のことである。
王仁三郎は同年12月10日から翌年1月6日まで鳥取県の吉岡温泉に清遊した[2]。滞在中、12月28日に朝日新聞の鳥取方面通信員の織田記者から取材を受けた[3]。
吉岡発言はインタビューを編集した新聞記事のため、実際に王仁三郎が、記事内で使われている言葉、表現で発言したのかどうかは分からない。しかし王仁三郎が記事を批判したという話は聞かれないため、大筋において発言内容は正しいものと思われる。
発言要旨
- 昭和10年(1935年)12月8日に第二次大本事件が勃発してから約10年間、大本の活動は禁止されたが、信徒は大本の信仰を続けてきたので、形はなくても、すでに再建されている。
- 大審院で、不敬罪は有罪(禁固5年)になったが、それは浜口内閣の暴政を詠んだ歌を、自分が天皇になりかわろうとしていると言いがかりをつけられたものだ。
- 自分はただ全宇宙の統一和平を願うだけである。
- 日本に戦災があることを予言していたが、それが現実のものになってしまった。
- 今までの神道は人を神格化して祭っているだけで、真の神を祭らなかったことが、間違いのもとである。
- 日本は亡びることはない。5年間は苦しい時代だ。
- 軍隊が解体され、軍備がなくなったことは、世界平和の先駆者としての使命が含まれている。世界の軍備がなくなるときが近づきつつある。
記事全文
- 旧字体は新字体に改めた
- 読みやすさを考えて適宜、句読点や改行を修正した。
予言的中“火の雨が降るぞよ”
新しき神道を説く出口王仁三郎翁
【鳥取発】
去る十年十二月八日大本教弾圧の際検挙されてから本年九月八日解放されるまで十箇年間、沈黙していた大本教祖出口王仁三郎氏は七十五歳の衰えもみせず、獄中生活でかかった軽い神経痛の保養のため、いま鳥取市外吉岡温泉で静養している。
敗戦日本の冷厳な姿がどう映じたか、神道の変革や信教の自由は─獄中生活の思出をまじえて語る同教祖の弁。
自分は支那事変前から第二次世界大戦の終るまで囚われの身となり、綾部の本部をはじめ全国四千にのぼった教会を全部叩き壊されてしまった。しかし信徒は教義を信じつづけて来たので、すでに大本教は再建せずして再建されている。ただこれまでのような大きな教会はどこにも建てない考えだ。
治安維持法違反は無罪となったが、執行猶予となった不敬罪は実につまらぬことで「御光は昔も今も変わらぬが、大内山にかかる黒雲」という浜口内閣時代の暴政をうたったものを持出し、“これはお前が天皇になるつもりで信者を煽動した不敬の歌だ”といい出し、黒雲とは浜口内閣のことだといったが、どうしても通らなかった。
自分はただ全宇宙の統一和平を願うばかりだ。
日本の今日あることはすでに幾回も予言したが、そのため弾圧をうけた。
“火の雨が降るぞよ、火の雨が降るぞよ”のお告げも実際となって日本は敗けた。
これからは神道の考え方が変わってくるだろう。国教としての神道がやかましくいわれているが、これは今までの解釈が間違っていたもので、民主主義でも神に変りがあるわけはない。ただほんとうの存在を忘れ、自分に都合のよい神社を偶像化してこれを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた。殊に日本の官国幣社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違いの根本だった。
しかし大和民族は絶対に亡びるものでない、日本敗戦の苦しみはこれからで、年毎に困難が加わり、寅年の昭和二十五年までは駄目だ。
いま日本は軍備はすっかりなくなったが、これは世界平和の先駆者として尊い使命が含まれている。本当の世界平和は全世界の軍備が撤廃した時にはじめて実現され、いまその時代が近づきつつある。