天明山別院
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天明山別院(てんめいざんべついん)とは、第二次大戦前に奈良県・生駒山地の山中にあった大本の施設。
- 大正9年(1920年)10月24日、天明山別院地鎮祭。王仁三郎ほか300名が参列。[1]
- 大正12年(1923年)8月5日、天明山別院の神殿落成鎮座祭執行。[1]
- 大正14年(1925年)2月24日、天明山を地恩郷と命名する。[2]
『大本大阪本苑八十年誌』に天明山別院設立の経緯が記されている。
大正四年頃、聖師さまは枚岡神社での参拝の折に霊眼に櫟原山[3]の底無しの池を見られ、これの調査を命じられた。八方手をつくしてもその所在地は分からなかったが、その後大阪の田中元七と名乗る人物が聖師さまに山の寄進を申し出た。話によると、田中元七は家畜を飼育しようとすれば死ぬ、家を建てれば倒壊するといった災難に遭い、ついに大本への寄進がなされた。大正九年十月二十四日、聖師さまは同山を大本天明山と命名されて地鎮祭を執行。大正十一年七月十一日、幽斎修業を終えた豊本景介が同山に赴任した。同十二年八月五日、大本天明山別院として神殿落成鎮座祭が執行され、高司忠俊、木田安次郎ら当時の有力な信徒が多数参拝し奉仕している。だが、事件後は同別院は消えている。
出典:『大本大阪本苑八十年誌』46頁
地鎮祭に関して『神霊界』誌に、「足跡」と題した、次のような王仁三郎の署名記事(日付は大正9年10月31日)がある。(現代仮名遣いに直した)
十月二十四日大和国の天明山神殿建築地の地鎮祭挙行のため、王仁以下数名祭員として登山した。会するもの三百余名、それにその筋では万一の警戒にと、十数名の警官が登山臨検になった。こうなると、大本も実に立派なものである。官費を以て保護なし下さるかと思えば、実に御本尊の神様の保護のように、有り難くなって来た。天明山はその名の如く、天(てん)明(あき)らけく地(ち)治まる天の岩戸が開けたのである。
次には大本の事業として、六甲山脈の大月山に、神殿を建設する事になった。ここに月の大神月光如来を祭る月球殿を、造営する神界の経綸である。
次には大本の事業として、六甲山脈の大月山に、神殿を建設する事になった。ここに月の大神月光如来を祭る月球殿を、造営する神界の経綸である。
出典:『神霊界』大正9年(1920年)11月11日号p102(現代仮名遣いに直した)
場所は、生駒山地の鳴川峠と十三峠の間にある天明山(約460m)の付近。
「瑞明殿(ずいめいでん)」と「水の宝殿(みづのたからでん)」という神殿があった。[4]