旗志の森
旗志の森(はたしのもり)は、出口王仁三郎が霊界物語に収録しようとして書いたものの、結局収録されなかった章の章題である。大正11年(1922年)11月に王仁三郎が自筆で書いた原稿が残されている。
〔本項は『綾の機』第75号(1988年11月発行)15~31頁「霊界物語に関する資料集(41) 旗志の森─未発表の霊界物語のご文章─」に基づいて作成した〕
概要
- 直筆原稿が26枚あり、表紙に「霊界物語第二巻第 篇」「旗志の森」と書かれている。これは現在の36巻分を1巻として考えていた時代の表現であり、「第二巻」は現在の第37巻以降のことである。
- 原稿の最終頁には「大正十一年十一月 日」という日付が記されている。日にちは記されていないが、この月には第40~43巻が口述されているので、その4巻のどこかにこの章を入れようとした可能性がある。しかし登場人物もストーリーも、その4巻を始め、どの巻の物語とも直接は繋がらない。
- 原稿の最終頁に「加藤明子録」と筆録者名が記されているが、加藤明子ではなく、王仁三郎の筆跡である。
- この章の内容は──ウラル教を国教とするカルマタ国の関守、アームス、ベルチンの二人が、国境の「ハタシの森」で生死観を論じる──というものである。霊界物語に「カルマタ国」は登場するが、「アームス」「ベルチン」という人物や、「ハタシの森」という森は登場しない。
本文
下にその本文を掲載する。これは王仁三郎が書いたものだが、霊界物語に収録されなかったという点において、霊界物語のような教典と同等に扱うことは出来ない。ただの資料である。
- 原稿には句読点はほとんど付いておらず、一字空白で文が書き連ねてある。しかし読みづらいので、ここではある程度の句読点を付け、適宜改行した。
- フリガナもほとんど付いていないが、ここでは多少フリガナを付けた。《》内に入れてある。
- 濁点符が付いておらず清音になっている場合があるが、読みづらいので、ここでは濁音に変えた。
デカタン高原の中にて最も広きカルマタ国の国境ハタシの森にウラル教の関守二人、藁小屋の中で、バラモン教徒や三五教徒の浸入を防ぐべくウラル教の常暗彦の命を受けて、朝夕酒に浸り乍ら後生大事と守って居る。
そして一人はアームスと謂ひ、元はバラモン教の信者であつたのが、常暗彦に見出されて大切な関守を命せられて居るのである。
又一人はベルチンと謂つて三五教の信者であつたのが、俄に変心してウラル教に入信した男である。
何れも相当の学識を備へて居る人物で、随分理屈の多い、神様から見れは途中の鼻高さんで何うにも斯うにも仕方の無い代物である。
両人がチビリチビリと酒を傾けながら、冬の夜の長さ凌ぎに宗教論や死生論に時を移すのであつた。
アームス『抑々《そもそも》ウラル教の生死観は今この宣伝使の申す通りだ。耳を清めて能つく聞け、エヘンオホン。死するといふことは要するに物理的生理的の法則に従ひ、栄枯盛衰の自然律に由つて草木が果実を結びて後、朽枯するに均しく、その跡を第二の我たる新らしい生活力を有する子孫に譲りて、此にその生活力を休止し、その不用にして婆婆の場塞ぎたる老廃の肉体をば各その元質に放還するまでゝある。
死なるものを自観すれば、大局より見て不用品を以て有用品に代え、新鮮なる勢力ある子孫に新たに生活力を開始せしむるに過ぎない。神の分霊分身として吾々は活動し得らるゝだけ活動したる以上は急度死を免がるることは出来ないのだ。
又無用の老生は却つて社会の損害であつて死するといふことは絶対的合理である。寧ろ当然の帰結である。それだから我々は青年[1]重ねて来らず、一日《いちじつ》再《ふたたび》晨《あした》なり難し。飲める時に飲み喰へる時に喰ひ働らける時に働らき遊べる時に遊ぶのだ。子孫に新生活力を伝へる丈けでは我々として大安心は出来ないのだ。
夫れだからウラル教の神様が現実界の人間は現実界に十分の活動も為し十分の歓楽を味はい現肉体の自分として何時死んでも心残りの無いやうにせよと仰しやるのだ。何んと斯んな判然とした宗教はあるまいがな。飲めよ騒げよ一寸先は暗よ、暗の跡には月が出る、月は月じやが運の月といふのだ。
自身の生活力が継承されても矢張現肉体としては余り満足するだけの深い関係は無いのだからなあ。三五教のやうに死んでからでも猶ほ個性を存して天国へ遊び安楽に暮せるものだと説くのは、何も知らぬ愚直な人間は夢中になつて頼りなき安心をして居るやうなことは、哲学的智識の完全に発達した吾々には肯定する事は到底不可能だよ』
ベルチン『我々は決してそうは思はない。死後急度個性的生活が続けられ、現世の因業によつて或は天国に安住し或は地獄に堕して無限の苦みを享受すべきものだと思ふよ。
吾人の肉体は栄枯盛衰を免れないとしても、その霊魂なるものは急度永遠無窮に生存し霊界にあつて至粋至醇なる身体を保留し、現界の如く活動さるるものだと思ふ。そうで無くては人間も約らぬものだないか。僅に三百年の生命を保持しその後は個性の生活が出来ないといふのならば、現代に於て道徳も仁義も律法も守るに及ばない。一日も生命のある中に我本能の命ずる侭に好きすつ法なことを行《や》つた方が余程利益だ。
そんな事なら極端に自然主義を発揮し、飲めよ騒げよでその日を面白く楽しく暮した方がよ余程利巧だ。生活力を子孫に残した丈けでは人間も約らないからなあ』
アームス『さうだからウラルの教が真理といふのだ。ソコが三五教と相違してゐる点なのだ。何程つまらなくても真理なれば仕方が無いじやないか。
宜しく活眼を開ひて宇宙の方面、即ち絶対の側に立つて死といふものゝ解釈を下す時は、死なるものは、絶対の活力が肉体といふ固体《こたい》の形式に由つて制限せられて居つたものが其拘束を脱却して絶対に還元したものだ。善悪、美醜、真偽、我他彼此《がたひし》の総ての相対を超越した絶対の我、絶対の真、絶対の善、絶対の美に帰するものだ。是が所謂無上の天国、無限の極楽に行くものだと云ふに過ぎない。
それだから哲学的に云ふ所の天国はあり、極楽は在つても実在では無い。心の天国、心の極楽はある。併し現実的の天国も極楽も地獄も無いのだ。更に本不生の意義から見れば生死とは畢竟位置の変換、形態の変更に過ぎないが、その変更した形態や位置は到底現実ヘ帰らないのだから、死といふものを約言すれば、自己生活力の終末と謂つても宜いやうなものだ。実に人生ほど困つた果敢ないものは無い。
アゝモウ斯んな議論は厭《いや》になつて来た。洒だ酒だ』
ベルチン『たとヘ位置や形体は変更しても、吾人が現在に於ける動作と活力の効果に由つて宇宙万有の大原則により、酬因感果の上に於ける第二の生活を個体を具へて開始する事が出来る不朽のものであらねば成らぬ。我といふ個性は堂しても永世常住不死の特権が完全に与へられてあるものと思ふよ』
アームス『哲理的考察よりせば生死は不二だ。我々も不死だ。永世の生命があるのだが、併し理論と実地とは大変な相違のあるものだ。三五教は本守護神そのものが真の我であつて現肉体は我で無い、霊魂の容器だと謂つて居るではないか。我々は肉体そのものを謂つて居るのでは無い。盤古神王の分霊たる我そのものが元の本家たる盤古神王に帰還合致するものだから、死は則ち、現実の肉体は滅亡し霊魂のみ元へ還へるといふのだ。無我平等海に入るのだ。
煙草を吸ふと一服の煙草は火に成り遂に灰になり煙になつてその形体を失つて了ふ。併しその煙草は永遠に位置形体を変更したのみで絶対の宇宙に現存して居る。決してその煙草を創成した元素そのものは滅尽するもので無い。煙となり灰となり土となり水となつて宇宙に存在して居るのと同一筆法だから、真に人生は果敢ないものだ。
お前は元来三五教で信仰を養つて来た男だから未だそんな未来の生活なんて虫の好い妄想が取れないのだよ。アハゝゝゝゝ』
漸く話す折しも、四辺《しへん》何となく騒々しく、人馬の物音近づき来たる。アームス、ベルチンは此の物音に打驚き、藁小屋の押戸を開ひて前方を眺むれば、幾百千とも数へ尽せぬ松火の光り、堂々として此方に向つて進み来る。
二人は、スハこそ一大事、バラモン教の大足別の軍隊押寄せたり。一時も早く常暗彦神に注進せんと、一目散に東を差して駈出した、
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口述者曰ふアームス、ベルチンの二人が議論を見るに何れも途中の鼻高の本領を発揮して堂しても帰着点が確固でない。是に能く似た宗教家哲学者は現在にも沢山あるやうです。半可通的人物の多いのは古今一徹である。一日も早く真理の太陽の光を暗黒社会に照らし度きものであります。
大正十一年十一月 日
加藤明子 録
脚注
- ↑ 「盛年」の誤字?