耀盌
耀盌(ようわん)とは、出口王仁三郎が作陶した楽焼茶碗の通称。王仁三郎が命名した名称ではなく、他人が名付けた愛称である(「#名称」参照)。王仁三郎の楽焼作品は前期(大正15年~昭和初期)と後期(昭和19年末~21年3月)があり、後期の作品が「耀盌」と呼ばれている。耀盌は彩色が鮮やかなことが特徴である。本項では前期の作品も含めて解説する。
名称
「耀盌」は王仁三郎が命名したものではない。陶芸評論家の加藤義一郎が名付けた名称である[1] [2]。加藤は昭和24年(1949年)『日本美術工芸』3月号で「耀盌顕現」という記事を書いたが、これが「耀盌」という言葉が世に顕れた初めである(「#昇天後の歴史」参照)。
王仁三郎本人は自分が作った楽焼茶碗を特別な呼び方はしていない。「楽焼」「茶碗」「楽茶碗」等の一般的な呼び方をしていたようである。ただし「わん」に「琓」(王+完)という漢字を宛てて「茶琓」と表記している場合がある。王仁三郎は前期の作陶の時から「茶琓」という文字を使っている。[3] [4] [5]
そのため「耀盌」ではなく「耀琓」と表記する人もいる。
銘
耀盌には「天国廿八」等の銘が付いているものがある。王仁三郎が命名したものは一部であり、二代教主や三代教主が命名したり、その耀盌の所有者が命名したものもある。
個数
王仁三郎が作陶した楽焼茶碗の数は、前期も後期もはっきり分かっていない。
前期(大正15年2月から昭和10年12月第二次大本事件までの約9年10ヶ月)の作品については約5千個という推測がある。だが第二次大本事件の際、当局の弾圧によりその多くは破却され、現存するものは少ない。[6]
後期(昭和19年年末から昭和20年3月までの約1年3ヶ月)の作品つまり耀盌の個数については「3000個」や「3000個以上」と紹介している場合が多い。
【例】
ただしこれは単なる推測の数字に過ぎない。作品数についてはっきり分かっている数字は「36回」窯を焚いたということだけである(佐々木松楽の記録による[9] [10])。その窯の大きさは内径が1尺8寸(約55cm)で、1回に茶碗が10個ほどしか入らない[11]。それを10回なり20回なり繰り返せば100~200個の茶碗が焼き上がる。その中から割れたりしたものを省いて良いものだけを使うと、最低で3千個は完成したのではないのかという推測だと思われる。また「三千世界一度に開く梅の花」など大本は三千という数字に因縁があるため、仮に3千個ということにしているのではないかと思われる。
3000個説以外に、3600個と推測したり[12]、7200個と推測する人もいる。
作陶の意図
王仁三郎は楽焼茶碗を、日用品や芸術品として作ったのではなく、神器として作った。「惟神霊幸倍坐世」と唱えながら作り、一つ作るのに千回も唱えたという。
後期の作陶は、獄中にいる時から構想を練っていた。
王仁三郎の作陶の意図が分かる発言として次のようなものがある。
【前期の発言】
- 大国美都雄『真偽二道』:「聖師は「ワシの茶碗は格好などで値打が決められては困る。これで、湯でも水でも飲んでくれたら、それで霊的に人の病が癒え、精霊が健全になる。そのために、自分は一生懸命心の中で惟神霊幸倍坐世と唱えつつ作っているのだ。判る人には判る。霊的なものを現実の世界の価値で批判されては、神様も苦笑ものだ」といわれていた。」[13]
- 王仁三郎の歌日記の中の一首「心力を籠めて造りし楽焼の茶碗に魂(たま)は永久(とこしへ)宿る」[14]
【後期の発言】
- 『真偽二道』:「(略)「教えの方はしばらくお休みですか」と質問した。すると聖師は、「教えは霊界物語に全部示した。あれ以上教えることはない」と言われ、「今は楽焼じゃあ。これもお茶を飲むための楽焼ではない。神器とするのである。後には御神体にするのもあろうし、これにお水を入れて飲めば病気が治り、身体が健康になるという身心浄化の神器のつもりでワシは造っておる。それを茶を飲むためのものと考え、良いの悪いのといろいろ批評する者がある。分らん者は仕方がないから、説明もせず黙って造っているのじゃ。お前は分ってくれるじゃろう」と言って声をあげて笑っておられた」[15]
- 三浦玖仁子『花いろいろ』:「この楽焼は後の世になったら国魂になるのやで。わしはこれをひねる時、何千遍も竹のササラでつつきながら『惟神霊幸倍ませ、惟神霊幸倍ませ』を唱えている。これにはわしの魂が焼きこんであるのやで。だからわしはこの楽焼を焼くのはしんどい。しかしこうして焼いておかんとわしの手形が後の世に残らんでナ」「本当に心をこめて造っているのだ。楽焼を造る時にちょっとでも雑念が入ったり、また人の入る気配を感じたら、せっかく造ったものがへたってしまう」[16]
- 木庭次守・編『新月の光』:「楽焼(茶わん)一つ造るのに千回「惟神霊幸倍坐世」と唱えるのである」[17]
- 『新月の光』:「ひとやで考えて考えて楽茶碗を造った」[18]
- 『新月の光』:「楽焼はみろくの世の御神体だ。これは玉じゃ」[19]
前期の歴史
一番最初の楽焼は、大正15年(1926年)1月24日に王仁三郎が買い物で京都に行った際、大丸百貨店で即席の楽焼窯が催されており、王仁三郎は自ら絵付けをして焼いた茶碗を10個ほど持ち帰った。茶碗の外側には「光照」と文字が揮毫されてあり、光照殿の完成記念(大正14年10月25日竣成)として配ったようである。これが王仁三郎が楽焼を始めた最初とされる。[20] [21] [22] [23] [24]
その後、1月28日にも再び大丸へ行き楽焼茶碗を焼いている。[25]
2月6日から、天恩郷で楽焼を始めることになった。京都から陶芸の技術者が2人来て指導した。[20] [24]
『真如能光』誌の5月15日号から王仁三郎の歌日記が掲載されることになったが、その一番最初は楽焼作陶に関する歌で始まっている(4月30日に詠んだ歌)。[26]
当初は素焼きの茶碗を大量に購入し、王仁三郎が絵付けをして、電気窯で焼き上げるというスタイルで作陶が行われていた。完成した茶碗は短歌や句の賞品としてもどんどん与えられて行った。前期の楽焼作りを手伝ったのは谷前清子である。[22]
当初は電気窯を使っていたため、夜しか焼けない(電力供給の問題か?)、ヒューズが切れた、停電などの理由で、作業が進まないことがあり、『真如能光』の歌日記には「電気釜ヒューズが切れて楽素焼今日一日を棒に振りけり」[27]など作業中止の歌がたびたび掲載されている。
昭和4年(1929年)7月20日に天恩郷に楽焼製作所の「清楽舎」(後に「蓮月庵」と改名)が竣工する。その隣には楽焼窯が作られ「亀楽窯」と命名された。この亀楽窯を作ったのは京都清水の陶工の佐々木吉之介(佐々木松楽の父)である。[22]
前期の作品で特筆すべきは「斎入(さいにゅう)」と呼ぶ、外見的な特徴が顕れた茶碗が多数あることである(後述)。
後期の歴史
第二次大本事件で投獄された王仁三郎は、獄中にいる時から、楽焼茶碗で天国の姿を表現したいという意欲を持っていた。出獄後もその意欲はあったが、戦時統制下で材料が入手できず、実行できなかった。京都清水の窯元・佐々木松楽(しょうらく)が亀岡の下矢田に転居したことを知った王仁三郎は、昭和19年(1944年)12月28日の夜、松楽宅を訪ね、土をひねり、下焼きがなされた。年が明けて昭和20年元旦に、その茶碗に染筆、1月3日に釉薬を塗り、約60個の楽焼茶碗が完成した。これが後期作陶の始まりである。以後、王仁三郎の茶碗作りの作業はほぼ連日続けられた。[28] [29]
王仁三郎一人で作陶したわけではなく、佐々木松楽(土練りと窯焚きを行った)、内海健郎、山川日出子の3人が終始手伝った。[28]
作り上げた茶碗は面会に来た信徒に次々と与えて行った。[30] [31]
作業は昭和21年(1946年)3月に36回目の窯出しをもって終わりとなった。[28]
(この間、20年8月15日の終戦、9月8日の大審院判決、10月7日の大赦令、12月8日の第二次大本事件解決奉告祭、12月30日の吉岡発言、21年2月7日の愛善苑発足など、重大な出来事が多数ある)
昇天後の歴史
王仁三郎が作った楽焼茶碗は、信徒にとっては信仰的な意味で価値が高いものだが、信徒以外でその芸術的価値を高く評価したのは、加藤義一郎(工芸美術の評論家、日本美術工芸社主幹)が最初である。加藤は昭和24年(1949年)2月、岡山県伊部町の金重陶陽(備前焼の陶匠、昭和31年に人間国宝に認定[32])を訪問し、そこで王仁三郎作の楽焼茶碗「天国廿八」と「御遊(ぎょゆう)」を見て感激した。その感想を『日本美術工芸』誌の同年3月号に「耀盌顕現」と題して発表した。また8月号では「耀盌〝天国廿八─出口王仁師手造茶盌〟」と題する論評を発表した。[33]
これにより大本でも、王仁三郎の楽焼茶碗を「耀盌」と呼ぶようになった。
これ以降、耀盌の展覧会が各地で開催され、世間で耀盌の芸術的価値が高く評価されるようになった。
斎入
前期の茶碗の一部には、「斎入(さいにゅう)」と呼ぶ外見上の特徴が生じたものがあった。
斎入のある茶碗は、第二次大本事件の際に当局によって全て破却されてしまったようで、現存していない。
少年時代に大本で奉仕した中村六郎(備前焼の陶芸家[34])は次のように記している。
中村六郎は「大本の文献にも無く、口伝で残っているだけ」と書いているが、実際には大本文献に記され、「斎入」という文字が宛てられている。
王仁三郎が楽焼を始めた当初から斎入は生じており、『真如能光』の歌日記には王仁三郎自身が「斎入」という語を使っていくつも歌を詠んでいる。その一部を下に記す。
- 電熱が弱かりし為折角に出来た斎入の汗疣(あせいぼ)ひつこむ〔『真如能光』大正15年(1926年)5月15日号(第20号)p3下段〕
- 名古屋から陶器の名人たづね来て再度斎入ながめ驚く〔同p4上段〕(以上2首は4月30日に詠んだ歌)
- 斎入が出た凹(へつ)こんだ気(け)があると釜の辺(へ)に迷ふ人もありけり〔6月15日号(第23号)p9上段〕(6月2日に詠んだ歌)
出口禮子が谷前清子と山川日出子に取材した記録によると、大正15年2月6日に天恩郷に電気窯が入ったが、2月8日から12日にかけて斎入が生まれた。
粟状の粒々が内も外も全部いっしょに盛り上がり、光によって変化しつつ、微妙に輝いている。十個は内外両面に素晴らしく出ており、十五個は内面だけ、五個は一部分だけでており、合わせて三十個である。 谷前たちは月明館の茶の間で、王仁三郎とともに斎入の茶碗でお茶を頂いた。粒々はなめらかであり、口に含んだ感触も味じわいも深く、そのまろやかさに感動した。谷前には一回きりの体験であった。 (略)
昭和五年(一九三〇)二月二十一日、東京の上野美術館で王仁三郎の作品展があったとき、一つずつ別部屋に短冊・色紙・焼き物と分けて展示した。会場の第九室に斎入一号の「朝空」、二号「朝みどり」それに「海の華」など、緑色の深い輝きが実に美しかった。聖師も二代澄も梅田きみ子宅を宿として見に来る。会期は七日ぐらい続いた。関連書籍
- 木の花別冊『出口王仁三郎の楽茶盌』:昭和30年(1955年)に発行されたこの冊子の題名では「耀盌」と呼んでいないので、この時点はまだ大本教団内において「耀盌」という呼び方がポピュラーではなかったと思われる。ただし本文内では「耀盌」と呼んでいる。
- 『耀盌 出口王仁三郎楽茶盌名品』1971年、講談社(B4変形版、214頁)
- 出口信一・監修、西村學・編『出口王仁三郎 耀琓』1996年、国書刊行会
外部リンク
脚注
- ↑ 大本教学研鑽所・編『大本のおしえ』(昭和42年、天声社)p216「最近とくに、世人を感動せしめたものに、手造りの楽焼茶盌がある。これを〝耀盌〟と名づけて、初めて世に紹介したのは、『茶盌抄』の著者、加藤義一郎氏である」
- ↑ 伊藤栄蔵・著、大本本部・監修『大本 出口なお・出口王仁三郎の生涯』(昭和59年、講談社)p232「加藤はその紹介文の見出しを「耀盌顕現」とつけた。耀(かがや)くばかりの茶盌という意味である。以後、「耀盌」は聖師の後期楽焼の固有名詞となった」
- ↑ 出口信一・監修『出口王仁三郎 耀琓』p255に前期作品である「岩戸」と「高尾」の箱書の写真が掲載されており、そこには「薄茶々琓」と記されている。
- ↑ 『出口王仁三郎 耀琓』p251(中村六郎「王仁三郎の芸術」)「師のお始めになった大正十五年の時から茶琓という字を使われました。茶琓の琓は玉(ぎょく)の王であり完(まったし)であります」
- ↑ 前期作陶中の歌日記に「茶琓」と表記している歌があるようだが未確認。
- ↑ 『立替え立直し 人類愛善世界の提唱』(昭和46年、出口王仁三郎生誕百年記念会)p97、加藤義一郎「茶盌師王仁」:「約五千の楽焼茶盌を造っていたという。しかし当時の官憲の峻烈な弾圧は、如何なる一物もいやしくも彼の息のかかったものの遺存を許さなかったので、一旦眼に触れれば容赦なく破毀され、五千を数えたという楽焼も、より多くの書画の筆蹟同様殆ど亡失したのである。それ故偶然に残った極めて稀な例以外には、前期の作を窺うすべはない。」
- ↑ 『聖師伝』「三四、愛善苑の新発足#」(昭和28年、天声社)p133
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「3 新生への準備#」(昭和42年、宗教法人大本)p684
- ↑ 出口信一・監修『出口王仁三郎 耀琓』p266-267、窪田英治の発言「先ほどご紹介した「花明山夜話」の座談会記事の中で、二代さま(出口すみ教主)が、松楽さんに、「何ぼ、窯したのかい」って問われますと、「三十六回でした」と答えておられる。そこで「自然にそうなったのか」聞かれたのに対して「後で帳面の記録を見たら偶然そうなっていました」とありますね」(文中の「花明山夜話」とは『木の花』昭和26年8月号に掲載された「花明山夜話(12)」のこと)
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「3 新生への準備#」:「作業は一九四六(昭和二一)年の三月に、三六回目の窯をもっておわりとなり、焼きあげられたものはじつに三〇〇〇個にたっした」
- ↑ 『出口王仁三郎 耀琓』p261、佐々木輝夫(佐々木松楽の子息)の発言「つまり尺八寸の窯、ということは内寸一尺八寸の窯なのです。だから茶盌が一回に十くらいしか入らない」
- ↑ 【例】木庭次守・編『新月の光』「楽茶碗(茶碗天国)」(八幡版下巻p308):「昭和十九年に準備し、昭和二十年に窯から三十六回、一回百個、合計三千六百個を出された」
- ↑ 『真偽二道』p143
- ↑ 『真如能光』大正15年(1926年)6月5日号(第22号)p19下段(5月14日 光照殿にて)
- ↑ 『真偽二道』p283-284
- ↑ 三浦玖仁子『花いろいろ』p110-111
- ↑ 『新月の光』1013「楽焼一つに祈念千回」(八幡版下巻p283)
- ↑ 『新月の光』1092「楽茶碗(茶碗天国)」(八幡版下巻p308)
- ↑ 『新月の光』1135「楽焼は五六七の世の御神体」(八幡版下巻p326)
- ↑ 20.0 20.1 『真偽二道』p118
- ↑ 『出口王仁三郎 耀琓』p268
- ↑ 22.0 22.1 22.2 出口和明「落胤問題を実証する 八」『神の国』平成13年(2001年)12月号掲載
- ↑ 『真如能光』第10号「天恩郷だより」p35、1月24日の項「聖師様午前十時三十分列車にて京都に御出浮。井内鐵外氏、鈴木少年御供申上ぐ。即日御帰亀。京都大丸呉服店楼上に素焼楽焼の陶器に親しく種々の書画を認められ即席に電気炉を以て焼上げさして来訪の各信者に頒たれ、お土産に寿老人の像を始め菓子器、湯呑、抹茶々椀、一輪生など種々面白き物をお持ち帰りになる。尚大丸重役連の記念の為にと乞ふが侭に与へられ、エプロン姿で御揮毫中を是又記念にとて撮影を許されたり。」
- ↑ 24.0 24.1 『大本年表』
- ↑ 『真如能光』第10号「天恩郷だより」p38、1月28日の項「(略)大丸呉服店に入られ再び楽焼に御揮毫遊ばさる。」
- ↑ 『真如能光』大正15年(1926年)5月15日号(第20号)p1「枕の歌垣(一)」:「楽焼の茶碗の珍宝捻くりて腰の骨まで痛めけるかな」
- ↑ 『真如能光』大正15年(1926年)6月5日号p12 歌日記の5月11日の項
- ↑ 28.0 28.1 28.2 『大本七十年史 下巻』「3 新生への準備#」
- ↑ 『出口王仁三郎 耀琓』p262上段
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「3 新生への準備#」:「その場に来あわせていた者に、おしげもなくあたえられた」
- ↑ 『花いろいろ』p112「その大切なお楽焼を、面会に見える信者さんに聖師さまは嬉しそうなお顔をして、ヒョイとお上げになるのです」
- ↑ 金重陶陽 - ウィキペディア
- ↑ 『大本七十年史 下巻』「楽天社の発足宣言とその活動#」
- ↑ 中村六郎 - ウィキペディア