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出雲大神宮
,→王仁三郎との関わり
== 王仁三郎との関わり ==
* 王仁三郎は出雲神社にたびたび参拝しており、宮司と懇意にしていたようである。しかし、火の御用・水の御用を行った[[出雲大社]]や[[元伊勢皇大神社]]、また[[熊野新宮神社]]、[[香良洲神社]]などのように宗教的な意味づけは、出雲神社に対してはなされていない。御神体山に[[国常立尊]]が鎮まっていることは知っていたようだが(→「[[#国常立尊]]」)、「元出雲」ということについては何も言及がないようである。 * 王仁三郎は明治35年(1902年)5月頃、大阪宣教に先立ち、出雲神社に参拝している。そのことが懐古歌集『[[百千鳥]]』で歌われており、藤木宮司と話し込んだことが歌われている。<ref>懐古歌集『[[百千鳥]]』(昭和52年、天声社)79頁〈大阪に愛善の道ひらかむと出雲神社にまづ詣でけり〉。88~93頁に出雲神社に参拝し藤木宮司と話したことが歌われている。その後、愛宕神社(出雲神社のすぐ近くにある元愛宕ではなく、愛宕山上の総本宮)に参拝している。この大阪宣教は神示によって中止になり、高熊山に入って第三回目の修業を行った。一ヶ月ほど後の6月頃に大阪宣教に行った。</ref> * 王仁三郎は[[大正天皇]]の崩御前に、出雲神社に毎日参拝し大正天皇の健康回復を祈願している<ref>王仁三郎は天恩郷においても病気回復の祈願を行っている。たとえば『[[真如の光]]』大正15年(1926年)12月5日号「天恩郷だより」34頁には、11月26日の夕拝後に「聖上陛下御不例御平癒祈願式」が行われ、王仁三郎が祈願の祝詞を奏上したと記されている。また『真如の光』大正15年8月25日号5頁、同9月5日号43頁には8月12日・29日に出雲神社に参拝した歌があるが、時期的にこれも大正天皇の平癒祈願か?</ref>。大正天皇は幼少時から病気がちだったが、大正15年(1926年)は年初から体調を崩し、8月には車椅子を使って葉山御用邸へ移り病床生活となった。11月からは宮内省が詳しい病状を発表するようになり、国民による病気平癒祈願が全国に広まった(12月25日崩御)。大国美都雄によると、大正天皇が重病だと知った王仁三郎は〈早朝湯殿において斎戒沐浴をされ、浄衣を着、丹波一の宮の出雲神社に参拝して祈願を凝らされた。これは二週間に及んだ。そして、御聖体の平安を祈り、長久を祈願した。毎朝六時には出かけて行かれるので、聖師の健康を案ずる側近達は「誰か代って行ったらいけませんか」と忠告すると、「それはならぬ。これは臣下としての私の真心だ」と言って真剣にその期間中は食事すら摂して、起居動作も謹しんで光照殿の一室に静座されていた。その期間中は神務や面会も一切さけておられた〉<ref>大国美都雄『[[真偽二道]]』280~281頁</ref> <ref>「[[大本年表]]」にはこの年の12月16日に「聖師、亀岡郊外の出雲神社に参拝」とある。</ref>。* 王仁三郎が[[天祥地瑞]]を口述した[[千歳庵]]は、出雲神社から献納された館を[[天恩郷]]の[[中之島]]に移築したもの。神社入り口右手の高台にあった牡丹園の建物を移築した。昭和8年(1933年)7月30日に千歳庵の地鎮祭が行われ、10月4日から天祥地瑞の口述が開始された。<ref>『[[神の国 (愛善苑)|]]』平成4年(1992年)1月号、29頁3段目</ref> <ref>窪田「やっぱりあった素盞嗚尊の社」15頁、18頁下段</ref> <ref>[[大本年表]]</ref>* 王仁三郎は出雲神社に狛犬を奉納している。唐金(からかね、青銅のこと)で造られていると言われているが、木製だとも言われている。<ref>『[[神の国 (愛善苑)|]]』平成4年(1992年)1月号、29頁3段目</ref> <ref>窪田「やっぱりあった素盞嗚尊の社」17頁下段</ref>* 大本総長・[[宇佐美龍堂]]が出雲大神宮の宮司(あるいは権宮司)を務めていたことがある。<ref>『[[いづとみづ]]』昭和59年(1984年)10月号、25頁上段</ref> <ref>窪田「やっぱりあった素盞嗚尊の社」18頁上段</ref>
== ギャラリー ==