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昭和8年(1933年)11月10日(旧9月23日)王仁三郎臨席で八雲神社の秋季大祭が行われ、その後、歌碑の除幕式が行われた。歌碑は「昭和8年(1933年)11月10日(旧9月23日)<ref name="s81110">八雲山歌碑の除幕式は昭和8年11月10日である(大本年表、大本七十年史)。だが『出口王仁三郎全集 第七巻』15頁で八雲山歌碑を「建設」した日が「十月十日」になっているためか、後世の資料で10月10日と記しているものがいくつかある。八雲山登山口にある看板、『[[大本教学]] 第七号』「出口王仁三郎聖師歌碑集録」94頁。</ref>王仁三郎臨席で八雲神社の秋季大祭が行われ、その後、歌碑の除幕式が行われた。歌碑は「[[八雲山歌碑]]」と呼び、「八雲たつ出雲の歌の生《うま》れたる須賀の皇居《みやゐ》の八重垣の跡」という歌が刻まれた。歌碑の傍らに記念として小松が植えられた。歌碑の側面と裏が広かったため王仁三郎はそこにも歌を刻めと命じ次の二首を与えた。「大山《だいせん》は御空に霞み海は光《て》る出雲の国は錦の秋《あき》なり」「千早ふる神の聖跡《みあと》をしたいつつ八雲の山に吾《わが》来つるかも」。
八雲山
,→出口王仁三郎との関わり
同年11月22日(旧10月25日)、[[大本八雲神社]]の鎮座祭が行われた。
[[第二次大本事件]]で八雲山山頂の八雲神社や歌碑も破却された。