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たまほこのひ可里
,→概要
旭形は孝明天皇の崩御後、神社創建のため奔走したが、なかなか許可が下りなかった。旭形は明治28年(1895年)に武豊(愛知県知多郡武豊町)に移住して頑張ったが、やはり許可は下りなかった。
[[ファイル:旭形亀太郎.jpg|200px|thumb|[[旭形亀太郎]]]]
万策尽きた旭形は明治29年(1896年)に、綾部の[[出口直]]のもとへ教えを乞いに行った。丹波の綾部に「ミロク大神」が現れて日本を救うということも、孝明天皇は「皇国の神術」(切紙神示)によって知っており、それを旭形に教えていたのである。旭形は綾部にミロク大神が出現したことを明治25年(大本開教)からすでに知っていた。旭形は弟子の佐藤を伴い出口直のもとを訪ね、孝明天皇の御神号を下さいと頼んだ。出口直は神様にお伺いをすると「たまほこノ神」という神号が与えられた。<ref>「史談会速記録」及び「旭形亀太郎小伝」によると、神号「玉鉾大神」は伊勢神宮の鹿島宮司に神号を付けてもらった。それは孝明天皇から賜った五鈷杵(玉鉾神社宝物)に由来する。仏教の「杵」は、「鉾」のことで、それに「玉」を付けて「玉鉾」になった。</ref>