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穴太
,編集の要約なし
穴太の地名の由来について王仁三郎は次のように語っている。
「(略)雄略天皇の二十二年<ref>西暦478年</ref>戊午の年、天皇の御夢により豊受大神様が伊勢の山田にお遷りになるとき、途中上田家の庭内即ち宮垣の里がその御旅所に選まれ、上田家の一族(聖師の祖先)は喜び勇んで鄭重に斎きかしづきしが、そのとき御神霊に御供へせし荒稲の種子が、欅(けやき)の老木の腐つた穴へ落ちこぼれ、それから苗が出たのを日夜に育てた所ずんずんと伸び、その稲に美(うる)はしき瑞穂を結びたれば、時の里庄が正しく神の大御心と仰ぎ奉つて、所在の良田に蒔きつけ、千本と云ふ名をつけて四方へ植ゑ拡めたのが穴穂の里の名の起つた始まりである。戊午の年、天皇の御夢により豊受大神様が伊勢の山田にお遷りになるとき<ref>伊勢神宮の外宮が、丹後半島の比沼麻奈為神社(京丹後市峰山町)から伊勢の地に遷宮されたこと。</ref>、途中上田家の庭内即ち宮垣の里がその御旅所に選まれ、上田家の一族(聖師の祖先)は喜び勇んで鄭重に斎きかしづきしが、そのとき御神霊に御供へせし荒稲の種子が、欅(けやき)の老木の腐つた穴へ落ちこぼれ、それから苗が出たのを日夜に育てた所ずんずんと伸び、その稲に美(うる)はしき瑞穂を結びたれば、時の里庄が正しく神の大御心と仰ぎ奉つて、所在の良田に蒔きつけ、千本と云ふ名をつけて四方へ植ゑ拡めたのが穴穂の里の名の起つた始まりである。
最初は穴穂と書いたのが後に穴生となり、穴尾となり、更に今の穴太となつたので西国二十一番の札所、菩提山[[穴太寺]]の院主は代々今に至るまで、穴穂の姓を名のつて居る<ref>現在の住職は穴穂行弘氏</ref>のであるが、その穴太の瑞泉苑より種子の頒(わか)たれると云ふことは有意義なことである。」{{kgm|651|瑞穂神霊}}