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上田正昭
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* 西陣の織屋の次男。著名な織元の佐々木清七(1844~1908年)の曾孫。<ref name="nihontoiukuni_p12">梅原猛・上田正昭『「日本」という国』2001年、大和書房、p12:「実は、私はもともとは京都西陣の織屋の息子なんです。明治維新のときに西陣は非常に衰微しますが、私の曾祖父、佐々木清七は、初代の織物組合長で、明治二年に民間でジャカードなどを入れた。明治五年にフランスへ行った佐倉常七さんは、後に私のところの番頭になっています。そういう織屋の次男に生まれました。亀岡の上田という延喜式内社の先代が亡くなり、跡継ぎが必要になったので、私は何もわからないまま、母にとにかく上田家を継いでくれといわれました。私の母と上田家の先代とが親しい友人だったのです。(略)そんなことで上田家を継いだのですが、早く神主の資格を取らなけれぽいけない。そこで国学院へ行くことになるんですよ。 国学院で折口信夫先生に出会う。実は折口先生から「君の学者としての将来を保証するから」と言われましてね。 藤井春洋さんという方が先生の跡継ぎとして折口家に入られたのですが、硫黄島で戦死されたので、白羽の矢が私に立ったんですね。(略)それで、えらいことになったと京大を受験して京都大学に入る」</ref>
* 昭和2年(1927年)4月29日、兵庫県城崎郡城崎町(現・豊岡市)で生まれる。小学生の時、京都の西陣に引っ越した<ref name="gendainoronri">『現代の論理』第8号 西村秀樹「皇国史観、差別に抗い、天皇や司馬遼太郎に大きな影響与えた~上田正昭」[http://gendainoriron.jp/vol.08/serial/se01.php Web上の記事](上田正昭の最後のインタビューらしい):「どうもわたしが上田最後のインタビューアらしい」「上田は、1927年、城崎温泉で名高い兵庫県城崎町(現・豊岡市)で誕生した。小学校のとき京都の西陣に引っ越し、中学生のとき縁があって京都府亀岡市の小幡神社に迎えられた。小幡神社には跡取りがなかったためだ。(略)神職の資格をとるため國學院大學に進学する」「上田はそこで歌人としても名高い折口信夫や金田一京助に出会う。ご承知のように、折口は日本民俗学の祖・柳田国男の弟子。上田は折口学とも言われる折口の学問にふれたあと、敗戦直後の1947年、京都大学文学部に籍を移し、歴史研究を本格的にスタートする」</ref>。
* 正昭の母親は、[[小幡神社]]の宮司([[上田正定]]?)と親しい友人だった。宮司が亡くなり、跡継ぎがいなかったため、正昭は母親に言われて上田家の養子になった。神主の資格を取るために国学院大学に入り(昭和19年)、そこで折口信夫と出会う。折口の影響で歴史を学ぶため京都大学に入った(昭和22年)。<ref name="nihontoiukuni_p12" />
* 養子に入ったのは中学2年生の時で、宮司になったのは20歳の時(昭和22年)。<ref name="kokoro" />