水茎文字
水茎文字(みずくきもじ)とは、七十五声の言霊を現示した文字。天津金木による宇宙生成のプロセスが内在されている。大石凝真素美から出口王仁三郎へ伝えられた。


特徴
水茎文字は神代文字の一種であるが、他の神代文字とは異なる次のような特徴がある。
- 一般に神代文字は日本に漢字が伝来する以前に使われていた日本固有の文字という主張がなされているが、水茎文字はそのような主張はなされない。水茎文字は宇宙の根源的な元素(75種類の言霊)を顕す文字であり、古代社会の日本人がこの文字が使っていたのではなく、もっとはるか昔、宇宙草創期における神霊の世界での文字という意味での神代文字である。
- 一般に神代文字は古文書や口碑によって古代から「伝承」されて来たと主張されている。それに対し水茎文字は「伝承」ではなく、琵琶湖の湖面に文字が浮かび上がるという超自然的な現象で「発見」されたものである(ただし「発見」以前に水茎文字の原型は存在していた→「#瑞組木」)。
- 一般に神代文字は平仮名・片仮名同様に清音の50音(あるいはそこから重複するイウエの3音を除いた47音)のみに文字を与えている場合が多い。しかし水茎文字では清音の50音だけではなく、濁音(ガザダバ行の20音)と半濁音(パ行の5音)[1]を含めた75音すべてに独立した文字が与えられている(「ン」は存在しない)。
- 一般に神代文字は、文字の配列表として「ひふみ」や五十音図を使用している。それに対し水茎文字は「真素美の鏡」という75文字を特殊な順序で配列した表を用いる。この特殊配列の思想的背景に「天津金木」による宇宙生成の理論がある。
- 神代文字の一つ一つの文字の形は、平仮名・片仮名やアルファベットのように全ての文字が互いに関連のない独自の形状をしている場合と、ハングル文字のように子音のパーツと母音のパーツを組み合わせた構造をしている場合とがある。水茎文字は後者だが、単純に子音・母音が合成されているのではなく、前述した「天津金木」による特殊ルールによって構成されている。
文字の構造
文字は円形と縦棒、横棒の組み合せである。一見、他の神代文字(特に阿比留文字)やハングルに似ていそうだが、構造は全く異なる。
それらの文字は、子音パーツと母音パーツの単純な組み合せによって一つの文字を作り出している。水茎文字にも子音(言霊学だと母音と呼ぶ)パーツと母音(言霊学だと父音と呼ぶ)パーツがあるが、単純な組み合せではなく、少々複雑である。
なお、国語学の子音は言霊学だと母音(九大母音)と呼び、国語学の母音は言霊学だと父音(五大父音)と呼ぶ。言葉が混乱するためここでは仮に、子音パーツをCP(Consonant parts)、母音パーツをVP(Vowel parts)と呼んで説明する。また水茎文字では、五十音表からは除外されているヤ行エイ、ワ行ウも含めて75種の文字がある。そのためア行アオウエイであることを明示したい場合には、㋐㋔㋒㋓㋑という丸囲み文字を使ことで、ヤ行エイ、ワ行ウと区別する。
水茎文字の75文字を配列するのに「真素美の鏡」と呼ぶ表が使われる。横5マス、縦15マス、計75マスある。一番下段の右から㋐㋔㋒㋓㋑(五大父音)が配置される。この5つがVPとなる。
㋐列は「咽の韻」、㋔列は「唇の韻」、㋒列は「口の韻」、㋓列は「舌の韻」、㋑列は「歯の韻」と名付けられている。これは㋐㋔㋒㋓㋑を発声する時に、それぞれ咽唇口舌歯を使うという意味のようである。
75声(しちじゅうごせい。「音」とか「文字」ではなく「声」と呼ばれる場合が多い)は3行15声ずつグループ化される。㋐ワヤの3行15声は「咽の音」であり「地の座」である。マバパの3行15声は「唇の音」であり「水の座」、ハサザは「口の音」「結の座」、タラナは「舌の音」「火の座」、カガダは「歯の音」「天の座」である。(3声ずつ連続させて呼ぶ場合、㋐ワヤ、マバパは「真素美の鏡」の配列の下の方から言うのだが、ハサザ、タラナ、カガダは上の方から言う)
15声のうちCPに該当する声は、㋐ワヤ、モボポ、フスズ、テレネ、キギヂである。そのCPにVPが結合することで、各声の字形が作られる。
ワは㋒と㋐の結合である。ヤは㋑と㋐の結合である。これは、ワは「ウア」と連続して発声することで「ワ」の声になるということを意味しているらしい。ヤは「イエ」と発声することで生じる声ということになる。 そのワとヤのCPに、㋔㋒㋓㋑のVPがそれぞれ結合することで、ヲウヱヰ、ヨユエイの文字が作られる。
「唇の音」「水の座」であるマ行バ行パ行のCPはモボポである。中間のボのCPが基本形となる。㋔のVPに縦棒が加わるが、これは軽重を示している。ボの軽い声がポであり、重い声がモである。縦棒の位置が上に上がる(軽くなる)とボになり、下に下がる(重くなる)とモになる。このモボポのCPに、㋐㋒㋓㋑のVPが結合して、残りの12声が作られる。
「口の音」「結の座」であるハ行サ行ザ行のCPはフスズである。中間のスのCPが基本形となる。スはまた、75声全体の中心に位置する。従って、八百万の神々の中心となる神(絶対神)をス神と呼ぶ。スのCPの場合、線ではなく、点が軽重を示す記号となる。㋒のVPの中心に点があるのがスである。それが軽くなり、点の位置が上に上るとフになり、重くなって下に下がるとズになる。このフスズのCPに、㋐㋔㋓㋑のVPが結合して、残りの12声が作られる。
「舌の音」「火の座」であるタ行ラ行ナ行のCPはテレネである。中間のレが基本形であり、㋓のVPに横線が加わる。上に上がるとテになり、下に下がるとネになる。このテレネのCPに他のVPが結合し残り12声が作られる。
「歯の音」「天の座」であるカ行ガ行ダ行のCPはキギヂである。㋑のVPに横線が加わる。中間のギが基本形であり、軽くなるとキに、重くなるとヂになる。これに他のVPが結合して残り12声が作られる。
このように、少々複雑であるが、とても論理的な構造で75声の水茎文字が作られている。
水茎文字を作りだしている理論は、天津金木によるものである。 →詳細は「天津金木」
なお、「ン」は「ム」が転訛したものであって、発音としては存在するが、言霊としては存在しない。
真素美の鏡との関係
大石凝真素美の祖父・望月幸智は、中村孝道から言霊学を学んだ。大石凝は中村孝道と直接の関係はないが、祖父から中村孝道の言霊学を学んだ[2]ので、中村孝道の孫弟子ということになる。「真素美の鏡」は中村から伝えられた。大石凝真素美の名は「真素美の鏡」に由来する[3]。[4] [5] [6]
しかし中村の真素美の鏡には水茎文字は使われていない。平仮名で七十五声が記されている。
発見の経緯
水茎文字は神代文字の一種だが、他の神代文字のように古文書に記されていたのではなく、また口碑によって伝承されたのでもない。水茎文字は琵琶湖で、大石凝真素美によって発見された。湖面に文字が浮かび上がるという神秘現象によって発見されたのである。
水野満年「大石凝真素美先生伝」[7]の「水茎の岡山望見」及び宇佐美景堂「日本言霊学概論」を総合すると、大石凝真素美が水茎文字を発見した経緯はおよそ次のようになる。(以下、前者を「伝」、後者を「概論」と略す)
明治15年(1882年)頃[8]、大石凝は滋賀県甲賀郡毛枚村《もびらむら》(現・甲賀市甲賀町毛枚)に住んでいた。大石凝は大和を巡遊した帰路、野洲《やす》の親戚宅を訪れ、琵琶湖を船で八幡へ渡ろうとした。沖の島の南面を過ぎる時[9]、水面に大きな波紋を見た。凝視していると十数分して形が変化して行く。しかし船上ではその全体を見ることができないため、八幡に上陸し、湖辺を西へ行くと、小さな山脈があった(これが水茎の岡)。その西端の小丘に登って湖を見渡すと、大波紋が一望できた。波紋は文字のような形をしていた。大石凝はそれを見て驚き、これは自分が研究している言霊の文字ではないかと喜んだ[10]。その形を書き留めて行くと、75種類あった。大石凝はこれを水茎文字と呼び、言霊の音韻文字とした。
【発見時期】
大石凝真素美が琵琶湖で水茎文字を発見した時期について「伝」と「概論」では数年の食い違いがある。「伝」には発見年月日が明記されていないものの、明治9年の「誓火霊験の失敗」と、明治11~12年の「天津金木の研鑽」の間に水茎文字発見のエピソードが記されているので、明治9年乃至12年つまり明治10年前後ということになる。それに対して「概論」には明治15年(1882年)頃と明記されている。
【名称】
水茎の岡からこの文字を実見したので仮に「水茎文字」と名付けられた[11]。従って「水茎」という言葉に特に意味があるわけではない。「水茎」という言葉の一般的意味は「筆」「筆跡」「手紙」という意味である。
(ただし明治3年頃に発行された『皇教真洲鏡』に掲載されている「倭攵字瑞組木」と題する真素美の鏡には、水茎文字の原型とも言える文字「瑞組木(みづくき?)」が記されている。→「#瑞組木」)
【大きさ】
琵琶湖の湖面に現れた波紋の大きさは数百メートルあり、大きなものだと千数百メートルもあった[12]。そのため湖上・地上から全体を見ることは困難で、高い場所(水茎の岡)に登る必要があった。王仁三郎は綾部の金竜海で水茎文字を見たが、金竜海は狭いため、せいぜい波紋の大きさは数メートルから十数メートルであったろうと推測される。
水面に石を投げ込むと波紋が生じ、大きく広がり、やがて消滅する。しかし水茎文字の波紋はそのようなものとは異なり、一定の形状を長時間保っていた。波紋が出現してから形を整えるまで4~5分乃至10分ほどかかり、その状態で20~30分間、形を維持して、消滅する[12]。水面に物理的な力が加わった結果としての波紋ではなく、天気清朗で無風の時に[13] [14]、何者かが指示するかのように、現れては消え、消えては現れる。通常の自然現象ではあり得ない、一種の超常現象である。
実見
大石凝真素美は明治15年頃(前述のように時期には異説あり)水茎の岡から琵琶湖に浮かぶ水茎文字を実見した。
明治31年(1898年)に出口王仁三郎は大石凝に伴われ、水茎の岡から水茎文字を実見している。 →「水茎の岡」「大石凝真素美#出口王仁三郎との関わり」
大正4年(1915年)には、王仁三郎は信者の梅田信之らと共に再度水茎の岡に登り、水茎文字を実見した。 →「水茎の岡」
その後王仁三郎は、綾部の金竜海で水茎文字を実見するようになった。[15]
水谷清は水茎の岡へ〈三回ほど実見に出掛けたが、不幸にして風の日のみで充分の結果を見なかつた。同門の中には水茎文字を写真にして持つてゐる者もあるが、充分明瞭には尚ほ見えないやうである〉[16]と語っている。
出口王仁三郎は昭和3年(1928年)5月8日、高知市内を流れる鏡川の川面に水茎文字が浮かんだということを日記に記している。〈朝起きて窓開け見れば雨しげく 鏡の川に水茎文字浮く〉[17]。これは雨が降っていたのでそれによって波紋が描かれ、それを水茎文字に例えただけのようである。
水茎文字はいつでも誰でも見えるものではない。また、見なくてはいけないようなものでもない。王仁三郎は次のように教えている。
瑞組木
明治3年(1870年)頃に発行された源泰亮 撰、蘭園田翁(田嶋蘭園)集録『脩心教余師 皇教真洲鏡』[18]には、「倭攵字瑞組木」と題する真素美の鏡が収録されている。本書には中村孝道の言霊学が記されており、「望月堂蔵版」と記されているところから、おそらく青年時代の大石凝真素美(幼名は望月春雄)が祖父・望月幸智(中村孝道の弟子)が残した中村孝道の伝書等を発見して、それを地元(蒲生郡)の著名人だった田嶋蘭園(天文地文の著書多数あり。明治6年没)のもとへ持ち込んだと推測されている[19]。「倭攵字瑞組木」には水茎文字の原型と言えるような文字「瑞組木」が記されている。それを誰が作ったのか、中村なのか望月幸智なのか大石凝なのかは分からない。だが文字の論理的構造は不十分であって、天津金木と結び付けるには不完全なものである。大石凝はこの不完全な水茎文字(瑞組木)をベースとして、天津金木の研鑽や水茎文字の「発見」によって、天津金木─真素美の鏡─水茎文字の体系を完成させたのであろうと思われる。
関連項目
外部リンク
脚注
- ↑ 言霊学では濁音ではなく重音、半濁音ではなく撥音と呼ぶ。
- ↑ ただし大石凝真素美は天保3年(1832年)生まれ、祖父の望月幸智は天保7年(1836年)に帰幽しているので、直接祖父から言霊学を学んではいない。おそらく祖父が遺した書物を通して学んだのだと思われる。
- ↑ 大石凝は幼名「望月春雄」、元服後は「大輔広矛」と名乗っていたが、明治6年(1873年)数え年42歳のとき「大石凝真素美」に改名した。→「〔大石凝真素美#略歴〕」
- ↑ 「大石凝真素美先生伝」:〈祖父に幸智氏あり、中村孝道氏に仕へて言霊学の蘊奥を究め、之を諸国に宣伝せらる。蓋し先生の言霊学は其の源を茲に発するなり〉
- ↑ 「日本言霊学概論#水茎文字の発見」:〈この言霊の原典はもと京都の人野山元盛といへる者の許にありしを、文化十三年の頃日向国の人中村孝道が是れを聞き伝へたるものであつて、その後翁の祖父望月幸智がこの伝をうけ、更に翁及び五十嵐篤好等に伝承されたやうである〉
- ↑ 「大石凝真素美先生伝#」:〈明治六年九月大祖の姓に復り、大石凝真素美と改名し〉
- ↑ 大石凝真素美先生伝# - 霊界物語ネット
- ↑ 「伝」による。
- ↑ 「伝」に〈沖の島の南面を過ぐる時〉と記されている。たとえば野洲川で船に乗り琵琶湖へ出て八幡(当時は内湖があった)へ行こうとすると、ある程度のところで長命寺山に遮られて沖の島が見えなくなる。〈過ぎる時〉とはそういう意味か?
- ↑ 「伝」には〈先生之を熟視して驚嘆して曰く(略)是れ我が修養せる言霊学の音韻文字なり〉、「概論」には〈それが翁の考へてゐた言霊説と一致してゐた〉と記されている。これは大石凝が研究していた言霊学の理論と、湖面に浮かんだ文字の構造(理論)とが一致していた、という意味ではないかと思われる。つまり理論はすでに存在していたが、それを表現するための記号(文字)はまだなかった、その記号が湖上に浮かんで見えたので大石凝は驚嘆したということだと思われる。
- ↑ 「概論」による。
- ↑ 以下の位置に戻る: 12.0 12.1 「概論」:〈その形態は方数町に亘り同一の形態を拾数分間も持続し、然かもその出現と消失が整然たる秩序をなし、或る何物かの指示するが如き実状を実見したのである。〉〈その描かれたる波紋は常に秩序整然として、一定の形態を備へ決して乱るることがない、而してその出現の時間は最初より形を整へるまでに四五分乃至十分を要し、文字の形態を整へてより二十分乃至三十分間現状を維持して消失するが、その出現の状態は日夜間断なく現はれては消え、消えては現じ、何ものかがありて書記するものの如く、文章を綴るものの如くに感ぜられる、然かもその文字の雄大なるは方拾数町に及び、誰にもその形状を認めることができるものである。〉:1町は109メートル。
- ↑ 出口王仁三郎「水茎文字の研究#」:〈天気清朗なるの日〉
- ↑ 「概論」:〈天気清朗の日この丘にたちて(略)微風だになき湖面は俄かに波たちて、大いなる波紋を描くのである〉
- ↑ 出口王仁三郎「水茎文字の研究#」(『敷嶋新報』大正4年6月15日)
- ↑ 水谷清『古事記大講 第14巻』191頁、NDLDL蔵書 PID:1241365/1/101
- ↑ 『ふたな日記』26頁、NDLDL蔵書 PID:1086461/1/17
- ↑ 八幡書店から復刻版が出ている。『皇教真洲鏡』平成14年(2002年)刊。
- ↑ 大宮司朗による推測。八幡書店『皇教真洲鏡』188~189頁